anti-daily-life-20210215
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...; they attack with insults anything they do not understand. (2 Peter 2-12)

 



 小林秀雄氏は、「モオツァルト」 の中で次の文を綴っています。

     僕等の人生は過ぎて行く。だが、何に対して過ぎて行くと
    言うのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。生は
    果して生を知るであろうか。

 私はこの文を読んだときに、「集合論の パラドックス」 (数学 [ 集合論 ]) の意味論版を思い起こしました──「集合論の パラドックス」 とは、「自分自身をふくむ集合はあるか」 という問題です。勿論、数学者の興味は、意味論なんかにはなくて、構文論 (記号演算、文法) に向けられた──この パラドックス に対して二つの ソリューション が提示されました、一つは 「大きな集合を考えないで、『範囲を限定した』 部分集合を前提にして [{ x ∈ X | f (x) } という前提を置いて ] 集合を構成するという ツェルメロ・フレンケル の公理系 [ ZF の公理系 ]、もう一つは 「タイプ 理論」(ラッセル が説いた論) です。これらの二つの論は集合論を厳密にして、集合論は その後 パラドックス が起こらない厳正な公理として扱われることになりました。

 我々のような数学の シロート は、厳正な公理を前提とする構文論 (数学的技術) などには興味が先ず向かわないでしょうし、次の謎々のような文の判断 (意味論) のほうに興味を抱くでしょう──

    「クレタ 人は ウソ つきだ」 と クレタ 人が言った。

 この文の真偽を どう判断すればいいのか、、、これが いわゆる 「自己言及」 と云われている命題 (?) です。この応用例は、いくつも作ることができます──たとえば、もう一つだけ例を示せば、「この文は ウソ である」 とか。ちなみに、一人だけの 「自己言及」 ではなくて、二人のあいだでも この パラドックス は起こります、たとえば夫婦喧嘩では──

    恵美子 「正美さんは ウソ つきです。」

    正美  「恵美子は正直者だ。」

 これは命題 (真偽を判断できる叙述文) ではなくて修辞 (rhetoric) なのです──だから、こういう修辞の論点を数学者たちは扱わない、数学者にとっては 「構文論が先で、意味論は後 (あと)」 なのです、数学者たちにとっては意味論というのは 「正しい値が充足されること」 であって修辞の作りかたなど研究対象にはならない。しかし、文学者 (および哲学者) にとっては、「表現」 特に 読者に感動を与える (あるいは、印象を強くのこす) ように有効に表現する方法は立派な研究対象です──実際、「修辞学 (弁論術)」 は アリストテレス から始まったと云われています。

 「生は果して生を知るであろうか」──文学青年の気質が強い私は、この文を軽視できない。何かを 「知る」 ということは、何か他の モノ と比較しなければ わからない。共時的 (synchronique) な事象は、延長ある空間のなかで [ 運動の連鎖のなかで ] 存在しているので、その事象のみを切り離して その事象の 「本質 (?)」 を探究することなどできない。この当たり前のことを なおざりにして、物事の 「本質 (?)」 を探るなどという徒労をしていながら、まるで高尚な哲学をやっている錯覚に陥っている人たちを私は数多く観てきました──「『愛』 の本質とは なにか」 「Entity (実体) の本質とは なにか」 と考えている人たちを観ていると私は それを真面目くさった冗談としか思えない。こういう真面目くさった冗談を小林秀雄氏は次の文で見事に撃ち抜いています──「美しい 『花』 がある、『花』 の美しさという様なものはない」(「当麻」)。

 一つの モノ を通時的 (diachronique) に眺めても、現時点において その モノ が置かれている延長ある空間を感知できるけれど、それと比較できる過去の或る時点の延長ある空間を (現時点の空間ほど厳正に) 思い出すことはできないでしょう──思い出は、いくつもの詳細を喪失している。だから、思い出は、或る 「印象」 しか伝えない。したがって、私は、過去の思い出のなかに生きたくはない。「Here and now (今、ここで)」──「意識 (あるいは、「精神」)」 というのは、「同時進行の自己記述」(Jaynes J.、認知科学者) である、そして それ以上でも それ以下でもないというのが私の抱いている現在の所思です。「目で目は見えぬ」 とは、古人が とうに云った諺ではないか。

 
 (2021年 2月15日)


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