anti-daily-life-20210301
  × 閉じる


...and a man carrying a jar of water will meet you. Follow him. (Mark 14-13)

 



 小林秀雄氏は、「ランボウ V」 の中で次の文を綴っています。

     僕が、はじめて ランボオ に、出くわしたのは、廿三歳の春で
    あった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いて
    もよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩き
    のめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋
    の店頭で、偶然見付けた メルキュウル 版の 「地獄の季節」
    の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられて
    いたか、僕は夢にも考えてはいなかった。

 ランボウ は、小林秀雄氏に多大な影響を及ぼした詩人です。小林秀雄氏が その ランボウ と巡り会った機縁を綴っています──その機縁は ほんの偶然の できごと だった。こういう偶然の巡り会いが その後の人生に多大な影響を及ぼす経験は──それは書物との出会いにかぎらず、人との出会いもそうだけれど──読書子の多くは覚えがあるのではないかしら。私も小林秀雄氏と同じような体験をしています、私の場合では、巡り会った人物は ギットン 氏 (フランス の哲学者) です。私が大学生の頃、大学は学生運動の最中で ロックアウト されることが多くて、私は貧乏な学生だったので交通費を払っての遠出をする余裕もなく、暇をもてあました貧乏な読書好きの学生ができることといえば、早稲田の古本街を散策することくらいでした (当時は、アルバイト と云っても、家庭教師・塾の講師および喫茶店の給仕があるくらいで、今ほど豊富には存しなかった)。貧乏だったので高価な書物は買うことができない、だから できるだけ安価な掘り出し物を見つけるのが漁歩 [ 散策 ] のたのしみでした。或る日、たまたま、或る古本屋に入ったとき、雑多に書籍が列べられている本棚のなかで いわゆる 「読書術」 に関する一冊の小冊子を見つけて、これなら直ぐに読めそうだなと不埒な気持ちをもって手にして拾い読みしてみたら、哲学っぽいけれど文学風なので一応買っておこうかなと思い、値段をみたら 50円だったか 100円だったか覚えていないのですが安いかったので 即 買った。そして、下宿に帰って、さっそう読みはじめたのですが、面白くて そのまま 一気に読破しました。その書物が ギットン 氏の 「読書・思索・文章」(安井源治 訳) です。そして、この書物が、その後 今に至るまで、私の思考技術の基底を形成することになった。この書物を私は いくども 読み返しています。私が この書物のなかで いちばんに気に入っている文は次の文です──

    思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、しかし人間が
    存在の体系と等しくなることは、おそらく不可能であって、真の
    救いは体系よりも方法を選ぶことであろう。

 この考えは、私が就職して仕事をおこなうときに、つねに座右に置いてきました── 30才代の頃、リレーショナル・データベース を日本に導入普及する仕事に就いたとき、そして 40才代の頃、モデル TM の前身である T字形 ER法を作る旅に出たとき、すなわち 私の人生を振り返ってみて その後の人生の行方をきめたときに原動力となった思想です。安井源治氏の訳も すばらしいですね (私は、大学・大学院で フランス 語を第二外国語としていたので、当時、フランス 語は辞書の助けを借りれば読むことができました。今では フランス 語は 全然 学習していないので、からきし駄目ですが (苦笑))。邂逅の奇縁を私は 今 しみじみ味わっています。そういえば、ウィトゲンシュタイン 氏との出会いも、私が 20才のときに、たまたま、親友の一人が 「論理哲学論考」 を面白いから読んでみなと勧めたのが切っ掛けです。そのときに親友が私に教えてくれた ウィトゲンシュタイン 氏の ことば が次の ことば です──

    はじまりを見出すことはむずかしい。否、はじめにおいて始める
    ことが。そして、そこ から遡ろうとしないことが。

 当時、私は、勿論 ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を知らないまま この ことば に なにかしら心が揺さぶられて、「論理哲学論考」 を買って読みました。哲学を専攻していない大学生 (私) が彼の著作を読んでも わかるはずもない。しかし、当時、彼の著作を読んで私の心が烈しく揺さぶられたのは事実です。その後、しばらく、彼の哲学を真面目に学ぶことをしないで、日々の生活に追われていました (大学院を修了して 30才になるまで、私は転職を 6回していて、さらに無職にもなっていて、日々 鬱積した気持ちに沈んでいました)。30才代になって、どういう切っ掛けであったのか覚えていないのですが、ウィトゲンシュタイン 全集を買って読み込みました (そのときに、親友が私に教えてくれた ウィトゲンシュタイン 氏の ことば が 「心理学の哲学」 のなかに収録されていることを見つけました)。そして、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学 (「論理哲学論考」) が、私が 40才になったとき、T字形 ER法を作る際の基底になったのです。ただ、T字形 ER法は、その後、ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学 (「哲学探究」) と ゲーデル 氏の 「不完全性定理」 を参考して、その前提を大幅に改訂しました──改訂した モデル 技術が TM です。ウィトゲンシュタイン 氏との出会いも たまたま の できごと でした、もし 親友が私に 「論理哲学論考」 を教えてくれなかったら、T字形 ER法は生まれていなかったでしょう。T字形 ER法が生まれなかったら、TM も形にはならなかったでしょうね。

 有島武郎氏との出会いも偶然の出来事でした。(私の記憶が定かではないのですが、私が中学三年生か高校一年生の頃のことです) 二歳下の弟が中学校の宿題の読書感想文で有島武郎氏の小説 「カイン の末裔」 を選んで、弟の机のうえに置かれていたのを私が たまたま 目にして、「何を読んでいるのだろう?」 と思って拾い読みしたら (「カイン の末裔」 が) 面白くて一気に読破して、有島武郎氏に興味を強く抱いて彼の作品を その後に いくつか (「生まれ出ずる悩み」 「或る女」など) 買って読んだ次第です。大学生の頃に彼の 「選集 (4巻)」 を買って読んでいましたが、金銭に余裕ができた 30才すぎてから彼の 「全集」 を買いました。有島武郎氏の作品は、今でも私の愛読書です。

 こうやって振り返ってみると、私の生活に大きな影響を及ぼした書物は、偶然の出会いからはじまっています。だから、小林秀雄氏が吐露している 「どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった」 という感想が私には共感・実感できます。「邂逅」 について、亀井勝一郎氏は次のように言っています──「したがって人生における一大事、人生を人生として私達に確認させるものは、一言でいふなら 『邂逅』 であると云つてよい」。私は、もうすぐ 68才になりますが、亀井勝一郎氏の この ことば を しかと実感できる。

 
 (2021年 3月 1日)


  × 閉じる