anti-daily-life-20210315
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If you want to enjoy life and wish to see good times,... (1 Peter 3-10)

 



 小林秀雄氏は、「光悦と宗達」 の中で次の文を綴っています。

     幸福は、己れを主張しようともしないし、他人を挑撥しよう
    ともしない。言わば無言の智慧であろうが、そういうものも
    亦大思想であると考える事が、現代では、何んと難しい事
    になったか。

 小林秀雄氏の評論 「光悦と宗達」 を私は かつて読んだと思うのですが、その中味については 皆目 記憶にのこっていない。その評論を改めて読み直してみようと思ったのですが、書庫まで出向くのも おっくうなので──書庫 (書斎) は、拙宅とは べつの [ 隣の ] アパート 3DK を借りていて、出向くのが めんどうなので──、「光悦と宗達」 という芸術の文脈を離れて、日常生活の文脈のなかで この引用文を考えてみます。

 現代の社会では WWW・SNS が普及しているので、多数の人たちが動画・写真・文章を世間に向けて発信して、互いに それらを share している──そういう社会を揶揄する ことば として 「リア充」(リアル 社会での生活が充実している) という ことば が生まれた (ネットの communities に入り浸って、現実生活が充実していないことを揶揄的 (自虐的?)反語として生まれた)。「リア 充」 が WWW・SNS に入り浸っている人たちを揶揄した ことば であるとしても、WWW・SNS をやっていない人たちが必ずしも 「リア 充」 ではないのは論理を学んだ人であるば当然にわかる帰結ですね──「非 リア 充」 の一部が ネットに入り浸っている人たちということ、「リア 充」 という意味は、ネット に入り浸っていることの アンチ・テーゼ であって、リアル 社会の生活が 「充実している」 ということを示唆していない、と私は考えます。

 生活が 「充実している」 状態が いわゆる 「幸福」 な状態なのでしょうね──「充実した生活」 とか 「充実感」 という ことば が使われているように、「充実」 していれば 「己れを主張しようともしないし、他人を挑撥しようともしない」 でしょう。ただ、「充実」 というのは どういう状態をいうのかというのは、それぞれの人が置かれている社会的場所 (学生である、会社員である、フリーランス である、経営者であるとか、さらに仕事 [ 職種 ] の中味とか、結婚している [ さらに、子どもの有無 ]、独身であるなどというような社会的関係の生じる居場所) によって多くの様々な前提を考慮しなければならないので、一律の述べることは 毛頭 できない。しかも、他人が その人の外見からの印象で以て 「充実」 していると判断しても──たとえば、大企業で重役として働いていて収入が多く、豪華な持ち家に住んで高級な自家用車に乗っていて、服や日用品が有名 ブランド 品を使っていて、子どもたちが有名校に通っていて、週に一回は高級 レストラン で外食して年に一回は海外旅行に家族で出かけるなどその他諸々の生活条件が満たされているとしても──当のその人は虚しさを感じているかもしれない。それほどに恵まれていれば虚しさなど感じる訳がないし、そういう人たちが虚しさを感じているかもしれないというのは、そういう恵まれた生活をしたことがない人 (私) の勝手な想像 (ひがみ?) であるというのような反論が出るかもしれない。確かに、私の勝手な想像です (笑)──でも、それほど恵まれている生活をしていれば虚しさなど感じる訳がないというのも勝手な想像でしょう (笑)、つまり 「充実」 しているかどうかというような (自らの感覚に もとづいている) 判断は、当人しかわからないということです。

 奴隷状態にあるときには、「幸福」 であるとは普通なら云わないでしょう。その理由は、自らの意思が抹殺されている状態だから。もし、奴隷が次のように言ったら、われわれは どう思うか──「奴隷になる前は日々の食事もできないほど貧しかった、奴隷になってからは食事が与えられるので、私は奴隷であることを 『幸福』 だ (あるいは、少なくとも、不満はない) と思っている」。奴隷が自らを 「幸福」 であると言い立てても、われわれは おそらく 彼が 「幸福」 だとは思わないでしょう。そして、彼のことを 「幸福な奴隷」 と皮肉るでしょう。「幸福」 な状態であるには、生活が 「充実」 していることが前提となるのは間違っていないでしょう。私は先ほど、「充実」 というのは本人しかわからないと言ったのですが、「幸福な奴隷」 というふうに われわれが呼ぶからには、「幸福」 とか 「充実」 を判断するために われわれは なんらかの前提条件を考えているということになりますね。「幸福」 とか 「充実」 というのは、なんらかの前提条件のうえに成り立つ現象でしょうね。では、その前提条件というのは どういう条件なのか、、、もし その前提を生活条件だとすれば、前述の 「充実した生活」 と同じになって循環論法に陥るでしょう、「幸福」「充実」 は、「自らの意思を自由に使って、意欲して創造することで悦びを感じる」 状態のなかで知覚されると私は思っています──だから、「幸福」 とか 「充実」 は、悲嘆のなかでも、あるいは悔恨のなかでも感じることはできる。勿論、裕福な生活のなかでも。「幸福」 ということを考えるときに、私は ゲーテ 氏の次の ことば が いつも思い浮かぶ──

     世の中のものはなんでも我慢できる。しかし、幸福な日の
    連続だけは我慢ができない。
    (「格言集」)

     考える人間のもっとも美しい幸福は、究めうるものを究めて
    しまい、究めえないものを静かに崇めることである。
    (「格言と反省」)

 「幸福」 とか 「充実」 というのは 「自らの意思を自由に使って、意欲して創造することで喜びを感じる」 状態のなかで知覚されるというふうに考えれば、ゲーテ 氏の ことば を納得できるのではないかしら──ゲーテ 氏の言いたいことは、「幸福に浸っていれば、意欲して創造することを忘れてしまう」、そして 「意欲して創造して、究めうるものを究めてしまい [ 究めうるものを究めてしまうということなど起こり得ないと彼は思っていると私は想像しますが ]、もう これ以上は人知では及びがたいと思ったとき、その究めえないものを崇めなさい [ そういう究めえないものに対して小賢しい論を弄するな ]、それが幸福ということである」 ということでしょうね。成すべき事を為す (究める)、ということでしょう。われわれは、「幸福」 とか 「充実」 という ことば に惑わされて、他人と比較して自らのほうが上であるとか下であるとか勝手に思い込んで、自らの造った幽霊に苛 (さいな) まれているのではないか。もし 「幸福」 とか 「充実」 という ことば が無かったら、われわれは不幸なのかしら?

 
 (2021年 3月15日)


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