anti-daily-life-20210401
  × 閉じる


None of them said that any of their belongings were their own,... (Acts 4-32)

 



 小林秀雄氏は、「骨董」 の中で次の文を綴っています。

     買ってみなくてはわからぬ、とよく骨董好きはいうが、これ
    は勿論、美は買う買わぬには関係はないと信じている人々に
    対していうのであって、骨董とは買うものだとは仲間ではわか
    りきったことなのである。なるほど器物の美しさは、買う買わ
    ぬと関係はあるまいが、美しい器物となれば、これを所有する
    としないとでは大変な相違である。美しい物を所有したいのは
    人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるの
    は人生の常である。

 私は、骨董に興味がないので骨董のことは皆目わからないけれど、この引用文のなかの骨董を 「書物」 に置き替えてみれば、大方の読書子は共感できるのではないかしら (私は共感できる)。最近、「断・捨・離」 とか ミニマリスト ということが話題になって、生活用品を 「生活するうえで必須のもの (must)」 と 「存ったら都合のよいもの (better)」 に分けて、必須のもの以外は持たない、そして身軽な生活を送ることが流行ったけれど、私は かつて買った物を なかなか 捨てることができない (苦笑)──私は、30才代の頃、雲水に憧れて、雲水に成りたいと思って、托鉢を生活の糧として 「僧は一衣一鉢のほかは財宝を持たず」 (「正法眼蔵随聞記」) という修行生活を送りたいと真剣に思っていました。しかし、いっぽうで、私は読書が大好きで、書物から離れることができなかった、書物を捨てることができない。私は、蔵書を置くために、拙宅の アパート とはべつに [ 拙宅の隣の ] アパート (3DK) を借りています。貧乏な私が書物を置くためだけの アパート を借りているのだから もう極貧状態です (苦笑)──隣の アパート を借りた当初は、そこに PC (デスクトップ) を二台置いて、寝具も揃えて、書斎を兼用していたのですが、10年くらい前から書斎としては使わなくなって、今では書庫となっています (隣の アパート のほうに会社の キャビネット も搬入したので──会社の所在地は南青山ですが、私が会社に行くことが全然なくて、会社の引っ越しのときに キャビネット を搬入したので──、3DK の空間は 一人が座る スペース しかない状態で、書庫になった次第です)。私の蔵書は、本 ホームページ の 「読書案内」 に記載されています。

 COVID-19 の世界的蔓延 (コロナ 禍) が原因になって テレワーク が普及して、リモート 会議のときに本棚を背景にして会議に参加している人たちが ときどき いますが、書物好きの私は そういう人たちの本棚を ついつい (興味がてら) 観察しています──本棚に置かれている書物を見れば、その人が どういうことに興味があって、そのことについて どのくらいの書物を読んでいるのかが垣間見ることができる、そして学術書・全集・選集が多く置かれている本棚であれば私は (会議そっちのけで [ 笑 ]) それらの書物を観察しています、いっぽうで本棚が ハウツー 本でいっぱいになっていると (「そんな本をいっぱい所蔵しているのを公に (世間に) 晒すなんて、恥ずかしくないのかョ」 と思って) うんざりする。

 「美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である」──この文の 「器物」 を 「書物」 に置き替えれば、私は この意見に賛同できる。この感情は、恋人との関係に類似しているでしょう、いつも いっしょにいたい、と。私の蔵書を見ても、大好きな著者については全集・選集を揃えている──たとえば、有島武郎全集・亀井勝一郎全集・ウィトゲンシュタイン 全集・道元禅師全集・澤木興道老師全集、そして選集にいたっては数多い──、そして彼らと語りあうときには、いつでも (深夜をすぎたときでも) 彼らの書物を手にとる。書物は図書館で借りればいいではないかという意見もあるけれど、図書館を深夜に訪れることができない。ただし、古代史・中世史を調べるとなれば、それらの史料は図書館でしか閲覧できないでしょう──読書子といえども、古代・中世の史料を蔵書として揃えるのは難しい──、私は古代史・中世史には文学を除いて ほとんど興味がない、そして古典文学 (古代・中世の文学) については、興味を抱いている作品 (たとえば、源氏物語) は研究家向けに出版されている書物・辞書をできるかぎり入手するようにしています。

 私は、蔵書のすべてを読んだ訳ではない──いわゆる 「積読 (つんどく)」 も多い、たとえば 「群書類従」 (生誕記念の活字版) は、古本屋で買ったことは買ったけれど、「万葉集」 の個所を少し調べた程度で 「積読」 状態です。でも、「群書類従」 を手放すつもりは毛頭ない。わが国の古書を集輯・合刻した塙保己一の人並み外れた尽力に私は思いを馳せて感慨にふけっている──他人から観れば、(極貧の私が) そんなことに 10万円近くも払って アホ だなと思われるかもしれない、「所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である」。江戸時代の版刷りも いくつか所蔵しています──「徒然草」 「枕草子」 「節用集」 など。古典文学の研究家でもない私が、「極貧のうえに金銭の無駄使いして アホ だな、生活費の足しにすればいいのに」 と思われるかもしれないが、好事家というのは そもそも そういう性質です www (読書子であれば、私のこの気持ちをわかってもらえると思う、「骨董とは買うものだとは仲間ではわかりきったことなのである」)。しかし、読書子というのは、「積読」 になっていた書物を いずれ 読みはじめるでしょう、読む価値のある書物は買う価値があると思って買ったのだから──ただし、辞書・事典は この限りではない、国語辞典・英英辞典・英和辞典として かつて名著と云われたけれど、現代では古くなって実用に役立たなくなった辞書・事典でも、すぐれた その個性を称えて私は収集しています、それらの辞書・事典は使用することはないけれど、ときどき 開いては中身を眺めて拾い読みしています。

 蔵書を私は 「断・捨・離」 できない──好きな書物は所有していたい (手元に置いておきたい)。そして、蔵書について私が困っているのは、日本の (都会の) アパート は狭くて生活的実用本位の間取りになっていて、本棚と仏壇を置くようには設計されていないということです (苦笑)。

 
 (2021年 4月 1日)


  × 閉じる