anti-daily-life-20210515
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and constant arguments from people whose minds do not function and who no longer have the truth.
(1 Thiothy 6-5)

 



 小林秀雄氏は、「『罪と罰』 についてU」 の中で次の文を綴っています。

     人間とは何かという問いは、自分とは何かという問いと離す事
    が出来ない。何故かというと、人間を一応は、事物の様に対象化
    して観察してみる事が出来るとしても、それは、人間に、あまり
    遠方から質問する事になるからである。人間は何かである事を
    絶えず拒絶して、何かになろうとしている。そういう人間に問い
    を掛けるには、もっと人間に近付かねばならぬ、近付き過ぎる
    ほど近付いて問わねばならぬ。僕に一番近付き過ぎている人間
    は、僕自身に他ならない。

 「自己を客観的に観る」 という嘘っぽいことを真面目くさって云っている人たちもいますが、私は そういう人たちを 全然 信用しない。生理学・医学であれば、人体を事物として対象化することはできるでしょうが、およそ 精神 (知・情・意) を対象にしたとき──それが自己の精神であれ、他人の精神であれ──客観的に観られる訳がない。肉体と精神を切り離して、精神を事物化して観察することは あくまで 「(精神の) 印象」 を記述しているにすぎないのであって、生理学・医学の人体検査に比べて そもそも検査精度が桁違いに低い。私は、自らの精神の運動をできるだけ精確に記述しようと思って、本 ホームページ の エッセー を綴っていますが、あくまで そのときに感じた印象を記述しているにすぎないというふうに見切っています──というのは、精神と云われる モノ は、その範囲・境界を明確に限定することができないし、その運動を構成する エレメント (パラメータ (変数)) を特定する (identify) ことができないので、その構造を考えることができないままに その運動の印象を記述するにすぎない。

 生理学・医学は細胞・神経・骨・筋肉などの具体的な事物を対象にして、それらの構造や作用を明らかにすることができるけれど、それらの部位が成す肉体のなかで意識 (精神) が どのように生成されるのか──おそらく、意識 (精神) は電気の パルス (impulse) なのでしょうが──その生成過程のすべてを ときあかすことは生理学・医学の技術が発達した現代でもできていない。人体について、私が驚嘆していることは、細胞・神経・骨・筋肉の物理的作用が電気 パルス を発生させて 「意識 (精神)」 を産むという点です。しかも、その電気 パルス の発生は、それぞれの人によって、その質・量がちがう。その質・量のちがいは、それぞれの人が親から継承してきた遺伝子および この世に誕生して以降の体験に因るのでしょうね。私がそう述べているからと云って、私は唯物論を信奉している訳ではない、想像力 [ たとえば、頭のなかで想像した恐怖 ] が身体に作用することも起こり得る。身心一体というのが私の考えかたです──「『意識』 とは、『同時進行の自己記述』」 (Jaynes J.、認知科学者) ということを私は 近ごろ 納得しています。

 「もっと人間に近付かねばならぬ、近付き過ぎるほど近付いて問わねばならぬ。僕に一番近付き過ぎている人間は、僕自身に他ならない」、この意見こそ文学の起点となるのではないか。特に 「私小説」 と云われている作品は、それを底辺に置いているでしょう。そして、いわゆる Soul-searching ((動機・信念などが) 徹底的自己省察、自己分析) 傾向の強い人も そうでしょう──「反 文芸的断章」 を綴っている私も その類いでしょうね。「反 文芸的断章」 の引用文に誘発されて浮かぶ精神の動きを、そして、その動きが次々に波動を成して辿り着く先を できるかぎり精確に記述していく、その精神の動きの行き先は私にも わからない、わからないから文を綴りながら精確に追ってゆく、自らの意識 (精神) の動きを自らの意識 (精神) が追跡するという パラドックス 臭が漂う、、、うさん臭い。しかし、「意識 (精神)」 (の動き)は、存在するけど説明できない、あるいは説明できないけれど存在する。つまり、「意識 (精神)」 の動きは 「論理的」 ではない、ということです。

 煙が立ちのぼっている、風が吹いてきた、風の向き・強さで煙の揺らぎが変わる、風が煙に与える影響 (作用) を科学的に分析することはできるでしょう。精神の動きを この煙の動きに喩えれば、精神の動きに影響を与える・風に該 (あた) る モノ は一体なにか、、、少なくとも、精神のみを凝視しても (精神が自足して動くわけはないので) ナンセンス でしょう。では、仮に、精神を動かす条件を列挙できたとして、それらの条件を揃えても精神は同じ動きをするとは言い切れない、というのは同じ状況下に置かれた複数の人たちが それぞれ異なる反応を示すので。つまるところ、こと精神に関しては、科学的な [ 客観的な ] 分析は難しい。もし、膨大な事例を分析して、精神の動きの パターン (傾向) を得たとしても、その パターン を前提にして演繹によって論を構成できない──「美しい花がある。『花』 の美しさという様なものはない」 (小林秀雄、「当麻」) というのが 「条件症候群」 に対する簡潔な警告でしょうね。

 テクノロジー が発達した現代は、文学・哲学が成り立ちにくい時代になった、文系軽視の風潮を私は危惧しています。しかし精神というものを我々がもつかぎり文学・哲学は廃れることはない、安っぽい作品は消えていっても真物は時代をこえて遺るでしょう──消え去るのは安っぽい作品です、ただそういう作品が現代では多くなったというだけのことでしょう、そういう作品が多くなったということは現代人の精神が脆弱 (鈍感) になったということでしょう。自分が テクノロジー に囲まれて bot にならないためにも、我々は もう少し自分に近づいてもいいのではないか。

 
 (2021年 5月15日)


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