anti-daily-life-20211015
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And how can the message be proclaimed if the messengers are not sent out? (Romans 10-15)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道している
    のであり、私達は、彼等の表現するところに、それを感得し
    ているという事は疑えぬ。西行の歌に託された仏教思想を云々
    すれば、そのうちで観という言葉は死ぬが、例えば、「春風の
    花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり」 と歌われ
    て、私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、
    私達のうちに生きているわけでしょう。まるで虚空から花が
    降って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみ
    は生命に溢れています。この歌を美しいと感ずる限り、私達
    は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色の教えを感得し
    ているわけではないか。美しいと感ずる限りだ、感じなけれ
    ば縁なき衆生である、まことに不思議な事であります。

 小林秀雄氏が述べていることを現代風に言えば、identity (自己の存在証明、生きている証、正体、個性、独自性、固有性) の論点になるでしょうね── indentity という英語を使ったのは [ 日本語を使わなかった理由は ]、前述の ( ) のなかに日本語で併記したように複数の意味をふくんでいて、小林秀雄氏の言わんとしていることが幅広く暗示されているがゆえのことです、一意に絞りきれないし一意に絞りきったら主旨を外してしまう (説似一物即不中) と私は思ったからです。

 私は日本人です──日本で生まれて日本で育った、ゆえに 「日本」 という領域内で生起している事態を (目に見える事態であれ、目に見えない事態──たとえば、「文化」 「伝統」 など──であれ) を直接に体験しています。ニュース 報道のように伝聞したこと──生活のなかで直接に体験していないこと──であっても、生まれてから今に至るまでに自ら直接に体験してきたことが私の判断・反応の基底になって、伝聞の 「意味」 を感知しているのは確かでしょうね。そして、日本以外の国々で生起した [ 生起している ] 事態・思想についても、それらの 「意味」 を把握する the norm になっているのは私が日本のなかで身につけてきた意識であるのは確かでしょうね。こういう論点は、哲学・民族学・比較言語学を学習すれば詳しく知ることができるのでしょうが、本 エッセー のような文字数の限られた文面では 勿論 語り切れないので、「美意識」 に限って、しかも それを思うがままに充所 (あてどころ) なく綴るほかしかたないでしょうね。

 日本人特有の感性として、われわれの意識に浮かぶのは 「あはれ」 「無常観」 「いき・すい」 「大和魂」 というような概念でしょうが、それらが具体的に指示している モノ は何かと問われたら即応できないのではないか──蝉の なき声を聴いて、「あはれ」 「無常観」 を感じて、「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」 と詠んだ歌人 (芭蕉) がいたいっぽうで、蝉の なき声を騒音としか感じない人もいるでしょう。蝉の なき声が騒音としか聞こえなかった人が、たとえば 親愛なる友が亡くなって、芭蕉の句を読んで感応するようになったとすれば、「あはれ」 「無常観」 という モノ が その人の心のなかに当初から存って、その感情が親愛なる人の死によって誘起されたのか──そんな単純な図式のような言説を私は信用しない。感性も知識と同じように学習して獲得するのでしょう、「美意識」 も意識であるからには、個々人が学習して獲得するしかない、「情操教育」 という ことば があるではないか。個々人が学習して獲得するのであるから、「あはれ」 という同じ ことば であっても、それぞれの人のあいだでは 当然 同じ 「意味」 ではない。こんな わかりきったことを頭のいいと云われている人たちが そっくりと忘れて次のように平然と言い放つのを 多々 私は目にしてきました──「日本人であれば、...するのは当然である」 と。数学のような論理的言語 (ことば と意味が 「1 対 1」 に対応する言語) であれば、「全称ならば単称」 という演繹推論は成立するけれど、自然言語では そのような論法は虚偽でしかない。

 私は、かつて、英語通訳者の アシスタント として、日本人たちの海外 ツアー (訪米) に同行したことがあるのですが、ツアー に参加していた或る日本人が米国人と会話していたときに、「We Japanese are unique...」 という言いかたをしていたのを聴いて、苦笑いしたと同時に、冷や汗が流れました。およそ、国家であれば、unique でない国家はない。日本のみが unique である訳はない。彼の英語を聴いていて、日本経済を担っていると自負している企業人の 「日本を考え思い伝える力」 が、この程度なのかと愕然としたのを いまでも記憶しています。彼が言い放った暴言は、英語が拙いという英語学習の弱点からきたのではないと思う。もし、彼が日本語で語っても、たぶん、彼は、日本のことをちゃんと語ることができなかったでしょうね。ああいう粗末な言いかたは、英語学習の拙さとは違う根本的な思考力の欠如からきていると私は思っています。論理も感性も学習して獲得すべきものです。

 「文学 (あるいは、芸術) など学習しても生活の糧にはならない (一銭も稼ぐことはできない)、文学 (あるいは、芸術) などというものは ナマケモノ の所作にすぎない」 という非難を私に向かって言われたことがあるけれど──それは私の かつての上司が言ったのですが──、私のような 「文学青年」 を観て、その素行が宜しくないことを嘆いて非難していたのであれば私は抗うつもりはないですが、古来 芸術家という専門職が社会の一隅に しかと居場所を占めているのには訳がある。その訳を私のような芸術家でもない ヤツ が述べても鼻で笑われるだけなので、私の言いたいことを的確に述べた芸術家の言を引用しておきます──「世に芸術家というものがなかったら、われわれは人生の美しさをとうてい本当には知らないであろう」 (A・フランス、「エピキュール の園」)。そして、それを感じなければ私とは縁なき人であると思うしかない。

 
 (2021年10月15日)


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