anti-daily-life-20220101
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..., to mind your own business, and to earn your own living, just as we told you before.
(1 Thessalonians 4-11)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     文化活動とは、一軒でもいい、確かに家が建つという事だ。
    木造建築でもいい、思想建築でもいいが、ともかく精神の刻印
    を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう
    特殊な物を作り出す勤労である。手仕事である。

 今 私は拙宅の書斎に居て、私の手元に小林秀雄氏の 「私の人生観」 が収められた彼の著作集がないので (拙宅に隣接する アパート── 3DK、書庫として借りている──のほうに置いてあるので)、私の朧気な記憶を辿って述べるのですが、彼は この文を綴るに先だって (「私の人生観」 のなかで) culture (文化) には 「耕作 (耕すこと)」 意味があることを述べていたと記憶しています。この引用文の 「文化活動」 の 「文化」 は、「耕す」 という意味をふくんでいることを前提にして この引用文を読んでください。

 「精神の刻印を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう特殊な物を作り出す勤労である。手仕事である」 という彼の意見を私は完全に同意します。私の過去 (40歳から今 68歳に至るまでの過去) を振り返って、その手仕事に該 (あた) るのが モデル TM の制作・改良です──私の壮年期を注いだ仕事でした。勿論、職業としている仕事では、モデル TM の制作のほかにも (TM を使って事業分析をする) コンサルテーション や セミナー 講師を務める仕事もありましたが、モデル TM を制作・改良することに ほとんどの努力が費やされました (そして、その努力は今も継続しています)。「文学青年」 気質の強い ナマケモノ の私が、曲がり形にも仕事を続けてこられたのは、TM を作ることに専念できたからです。もし TM を作らなければ、私の人生は きっと碌でもない人生になっていたでしょう。

 大学に入学したものの 当時は学生運動が末期になってきたとはいえ まだまだ衰えておらず、学生運動の最中、大学は たびたび ロックアウト され、ノンポリ の学生たちは時間を持て余していた──私は、下宿部屋に閉じこもって、文学・哲学の書物を読み漁っていました。そして、大学四年生のとき、就職するのが嫌で (怖くなって?)、大学院に逃げこんだ。修士を修了したあとで、1年ほど無職になって、その後に なんとか就職しました。ただ、会社での仕事が嫌で嫌で、まいにちが つまらなかった。そのために、転職を 6回くり返していました。30歳すぎに A 社に就職してはじめて仕事をたのしいと思うようになって、仕事に専念できるようになったことは 「反 文芸的断章」 のかつての エッセー で たびたび言及しているので ここでは割愛します。当時、リレーショナル・データベース を日本に導入・普及する仕事に就いて私の生活は転回しました (当時、リレーショナル・データベース は日本では先例がなかった)。

 私は 37歳のときに A 社を辞めて独立開業しました──独立したのは、私の意思ではなかった (このことについては、かつて述べているので再述しない)。30歳から 37歳のあいだ、A 社のなかで私がやった仕事は、日本初という プロダクト (欧米からの輸入品──アプリケーション・パッケージ [ 固定資産会計、生産管理 ]、4世代言語、リレーショナル・データベース、UNIX 用の アプリケーション・パッケージなど、今でこそ そういう ソフトウェア は普通に使われていますが、当時の日本には先例がなかった) を日本語化・日本化して日本に導入・普及する仕事でした。日本では先例がなかったので、手探りで (自分の頭で考えて) 仕事をすすめるしかなかった。そういう ソフトウェア を マーケット の動向を観ながら商品化していくという仕事は A 社のほかには (IBM 社などの ハードウェア・メーカー を除いて) ほとんど存在しなかった。大げさな言いかたではなくて、私は全身全霊を注いで仕事に打ち込み、たのしかった。

 37歳で独立した後、40歳頃に 私の生活が もう一回 転回することになった。日本初という仕事をしていて、そして私自身の著作を出版するようになって、データベース 界隈では 超 「売れっ子」 になって、たのしいことは たのしかったのだけれど、私は次第に次のように感じるようになった──「私がやっていることは、欧米の猿真似だ。すでに作られた プロダクト の しくみ のなかで その トリセツ を読んで 「解釈」 して、プロダクト の使いかたを指導するという模倣にすぎない。RDB を熟知していると云っても、猿真似している (英文を日本語に翻訳している) だけの仕事であって、そんな仕事なんて いずれ だれでもが習得する。他人よりも少々早く習得したという程度のことだ、他人よりも先だって学習した ヤツ が後ろを振り向いて後から来る人々に対して優越感を 少々 抱いているにすぎない。私は、自らの プロダクト を作りたい」 と。そういうふうに自惚れるほどに当時の私は若かった。

 そして、40歳頃に私は 「自らの モデル 技術」 を作る旅に出た。その技術が かつてのT字形 ER法 (モデル TM の前身) でした。多くの企業に導入してもらって成功例 (実績) を積んできました。そして、著作も その頃には 4冊 出版してきて、私は いい気になっていたのです。T字形 ER法は、実地に使っていた技術を体系化しただけであって、その技術が 「完全である」 かどうかは (理論的に) 検証されていなかった。私の気持ちのなかで、T字形 ER法が 「完全である」 かどうかを確認したい意欲が強くなってきました。そして、その検証をするために、いわゆる 「数学基礎論」 を学習しはじめたのです (2000年に 「論理 データベース 論考」 を出版した頃です)。しかし、数学を正規に学習してこなかった 「文学青年」 には とても つらい学習でした (つらかったけれど、苦しいと思ったことはなくて、寧ろ たのしかった)。数学・哲学の天才たちの著作を 多数 読んで、私のような程度の凡人が直ぐに咀嚼できる訳がない──そのときの私の精神状態を喩えれば、大海の中に放り出されて、どの方向に泳いで行けば陸に辿り着けるのかが まったく わからなくて、溺れないように ただただ 手足を闇雲に バタ つかせているという状態でした。不安しかなかった。なにも生み出せないままに学習は徒労に終わるのではないかという恐れしかなかった。幸いにも、拙著 「モデル への いざない」 を出版した頃から私は (「数学基礎論」 の学習と自らの モデル 技術の完全性について) 手応えを感じはじめました。その技術が モデル TM です。そして、それ以後、私は、TM に対する確信と自信を抱くようになったのです。そして、それは、自らの人生を振り返ってみて、68歳になった今、生活するうえでの自信となっています。逆に言えば、「数学基礎論」 を もし学習していなければ、そして TM を もし作っていなければ、私の人生は惨憺たることになっていたでしょうね。

 モデル TM を作って、私は小林秀雄氏の云う 「文化活動とは (略) ともかく精神の刻印を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう特殊な物を作り出す勤労である」 ということを はっきりと実感しています。そして、その過程 (「数学基礎論」・哲学を学習して モデル 技術を作る過程) で、喩えれば 大海に投げだされて溺れそうになりながらも なんとか小島に泳ぎ着けたことを幸運なことであったと思っています。もし 今 再び その旅に出ろと言われたら、私は怖じ気づいて後退りして拒むでしょうね、そういう無謀な旅に出たのは若気に至りだったと言えば そうなのかもしれない、当時の私は若くて怖い物知らずだったのでしょう、過去を振り返って 学習途上で挫折しなかったことを今更ながら安堵しています (苦笑)。

 
 (2022年 1月 1日)


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