anti-daily-life-20220115
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...constant arguments from people whose mindss do not function and who no longer have the truth.
(1 Thessalonians 6-5)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     文化の生産とは、自然と精神との立会いである。手仕事を
    する者はいつも眼の前にある物について心を砕いている。批評
    という言葉さえ知らぬ職人でも、物に衝突する精神の手ごたえ、
    それが批評だと言えば、解り切った事だと言うでしょう。

 小林秀雄氏の この文は、長年 ひとつの仕事にたずさわっていて、その仕事に対して 「工夫」 を重ねてきた人なら納得 (実感) するんではないか。「物に衝突する精神の手ごたえ、それが批評だ」 というのは、「工夫」 を考える初めの一歩でしょう。物に実際に衝突していない他人の批評は、──たまには、すごく良い助言になることもあるけれど、そうなるには、その他人の才識が私と同じかそれ以上でなければならない──他人の批評のほとんど多くは SNS のクソ・リプ のような言いたい放題の中身です (批評された側の人は、批評した人の文面から批評した人の才量を ちゃんと測っている、少なくとも私は そうです)。というか、批評される側の人は、他人の批評など聞き流して、「いつも眼の前にある物について心を砕いている」──「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」 (ダンテ) としか思っていない。

 今まで学習・研究してきたことを更に一歩進めるための工夫を色々と考えていれば、よそ見する暇などないでしょう。成すべきことを為す、それだけのことです。私は若い頃から他人のことには無関心であって、自己中だったのですが、年老いた今、平均寿命から云って もうのこされた年数が少ないので、いっそう 自らの才識を伸ばすことしか興味がない。私は仕事が大好きです、仕事のなかで 「工夫」 して、巧くいったことも しくじったことも体験してきて、そういう体験こそが仕事ができなくなったときに (あるいは、引退したときに) 「思い出」 になるのではないか──「思い出」 というのは、(実際の) 体験の記憶でしょう、頭のなかで考えた単なる想像は 「思い出」 とはならないでしょう。人生を終えるときに 「思い出」 を豊富に持っていたいと私は願っています。

 
 (2022年 1月15日)


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