anti-daily-life-20220215
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How wonderful is the coming of messengers who bring good news! (Romans 10-15)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     海が光ったり、薔薇が咲いたりするのは、誰の眼にも一応
    美しい、だが、人間と生れてそんな事が一番気にかかるとは、
    一体どうした事なのか。

 この文は、芸術家の性質 (特質) を吐露していますね。それに対する答えは、私は芸術家ではないので、推測でしか言えないのだけれど、おそらく 「曰く言い難し」 というしかないでしょう。歴史のなかに燦然とかがやく天才的な芸術家の伝記を私は 多数 読んできましたが、それぞれの芸術家は おのおの 生まれ育った環境が違うし、性質 (性格) も違うので、芸術家になるための一般手続きなどないでしょうね。だれもが芸術家になることを欲して芸術家になれる訳ではないでしょう、芸術の技術を努力して学んでも、そんな努力は当たり前のこと (技術を学ぶのは当然の前提であって)、努力して芸術家になれる訳でもない。でも、このことは、芸術に限らず、およそ あらゆる分野において当たり前のことであって、芸術では特に 「美」 に取り憑かれた人が努力を積み重ねて天才となって作品をのこすのでしょう──そして、「美」 とは、、、この語、定義無し。畢竟、自らの情念に突き動かされて作品をつくる、としか言いようがないんではないか。

 私のような程度の 「文学青年」 であっても、幼児の頃から感受性が強いと言われてきました、しかし芸術家にはなれなかった──芸術の技術を学んでこなかったことも一因ではあるけれど、たとえ 技術を学んだとしても、私は きっと 芸術家にはなれなかったでしょう。小林秀雄氏が彼の他の エッセー のなかで次の文を綴っています──

    私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。
    解する必要を認めない。実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし
    人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもない。詩みたい
    なものを書く単なる馬鹿だ。

 この意味では、私は 「詩みたいなものを書く単なる馬鹿」 です──「文学青年」 と云われて、そして 「文学青年」 であることを気どって、作品を遂には書けなかった人たちの大方は そうでしょう。「文学青年」 ですら、「海が光ったり、薔薇が咲いたりするのは、誰の眼にも一応美しい、だが、人間と生れてそんな事が一番気にかかる」 性質が顕著です、「文学青年」 は、日常生活には無頓着なまま 自らの感性を大事にしている、でも 芸術家にはなれない 「下手気の抜けぬ未熟柿 (なまじゅくし)」 です。それでも、いっちょ前に芸術について語るほどの恥知らずです──「とかく臭気 (くさみ) の付 (つく) 族 (わごぜ) に真物 (まことのもの) なし」。

 「海が光ったり、薔薇が咲いたりするのは、誰の眼にも一応美しい、だが、人間と生れてそんな事が一番気にかかる」 人 (芸術家) とは、カミュ 氏の ことば を借りれば、「自己の流儀で、世界を再建する」 気概と感性と技術を最上に表した人ではないか? 人間として生まれてそんな事 (「美」) が一番気にかかるままに じぶんの流儀を形にできないで人生を終える人たちが多いのではないか、そういう人たちは芸術家の作品を羨望・感嘆・嫉妬の入り交じった感情で眺めてきたし、これからも そういう人たちは絶えず生まれてくるでしょう──そういう人たちのなかから天才が出て来て作品をのこすのでしょう、だから芸術は滅びることはないでしょうね。

 
 (2022年 2月15日)


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