anti-daily-life-20220401
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The harvest is large, but there are few workders to gather it in. (Matthew 9:37)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     思想の モデル を、決して外部に求めまいと自分自身に誓った
    人、平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない、働く
    事が平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれ
    るのであると確信した人、そういう風に働いてみて、自分の精通
    している道こそ最も困難な道だと悟った人、そういう人々は隠れ
    てはいるが到る処にいるに違いない。私はそれを信じます。

 小林秀雄氏の この文について、私は 100%同感します──実際、「そういう風に働いてみて、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人」 を私の周りの人たちのなかで幾人か観てきました (さらに、書物を通して知った人たちも ふくめれば、その人数は もっと多くなる)。彼らは、すぐれた仕事をしていて、けっして自分の為した仕事を宣伝しないし、自分を売る (セールス する) ことなど眼中にない。自分を セールス しなければ誰にも わかってもらえないというようなこと (stereotyped な 「都市伝説」) が現代の競争社会では当然のように云われているけれど、自分を セールス するほど卑しいことはないと私は思っています。ましてや、有名になりたいなどと下衆 (げす) い根性で自分を セールス する ヤツ などを観ると私は反吐が出そうになる──とは言いつつ、私も 50才以前には そういう下衆い根性を たっぷりと帯びていました (苦笑)、若気の至りといえば そうなんでしょうが、自分は周りの凡庸な連中とは違うんだと自惚れて、eccentric な (常軌を逸した、一風変わった) 振る舞いをして社会を見下していました。私が見下した連中のなかに、ほんとうに すぐれた人たちがいるということも知らないで、、、。野心に燃えた若者が陥りやすい落とし穴なのでしょうが、今振り返ってみれば羞恥しか覚えない。50才をすぎて、いまだ そういうふうに自惚れているのならば、ほんとうの阿呆でしょうね。私は、60才をすぎた頃から、そういうふうに自惚れている人を見ると 「生理的な」 嫌悪感を覚えるようになった──ただし、若者が自惚れているぶんには、私は苦笑しながらも嫌悪感を覚えることは ほとんど ない。

 「承認欲求」 という ことば を たびたび 聞くけれど、自分が他人に無関心であるのと同じように他人も自分に無関心であることが感知できていないのではないか。あるいは、他人が自分に無関心であるがゆえに、「承認欲求」 が強くなるのかしら、、、現代では、自己顕示欲を満たすには都合の良い場所である SNS が発達して、「承認欲求」 に いっそう拍車がかかったようですね。こういう喧騒な・歪な社会では、SNS 上では ROM (Read Only Memory) に徹して 「高みの見物」 というふうに自惚れているほうがいいのかもしれないですね www.

 
 (2022年 4月 1日)


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