anti-daily-life-20220515
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You have eyes──can't you see? (Mark 8:18)

 



 小林秀雄氏は、「古典をめぐりて <対談>」 の中で次の文を綴っています。

     文学はやはり西洋ものを尊敬しております。自分の為になる
    もの、読んで栄養がつくものはどうしても西洋人のものなん
    です。若い人でやっぱり西洋文学をどんどんやるのが正しいと
    思います。何と言っても近代文学は西洋の方が偉いです。併し
    物を見る眼、頭ではない、視力です。これを養うのは西洋の
    ものじゃだめ、西洋の文学でも、美術でも、眼の本当の修練に
    はならない。日本人は日本で作られたものを見る修練をしない
    と眼の力がなくなります。頭ばかり発達しまして。例えば短歌
    なんかやっている方は、日本の自然というものを実によく見て
    いる。眼の働かせ方の修練出来ているという感じを受けますが、
    西洋風な詩を作る詩人のものを読むと、みな眼が駄目です。

 小林秀雄氏のこの文に私は共感します。私が最初に文学の虜になった作品は、有島武郎氏の 「カインの末裔」 でした。その後に、彼の諸作品を読みました──「生まれ出ずる悩み」 「惜しみなく愛は奪う」 「或る女」 「宣言」 など。有島武郎氏が機縁になって、文学に取りつかれた私は その後に 日本人作家では、梶井基次郎氏・川端康成氏・三島由紀夫氏・亀井勝一郎氏・小林秀雄氏を読み漁り、大学生になってからは次第に読書範囲を広げていって、西洋文学も読むようになった。西洋文学では、ロシア 文学・フランス 文学・ドイツ 文学・東欧文学を翻訳で読んでいました。文学作品を読む傍ら、哲学・心理学の書物も読むようになった。ただ、それらの文学作品 (日本文学・西洋文学の作品) は、小説が主体であって、詩を ほとんど 読んでいなかった。詩人のなかで唯一 愛読してきた作品は、浪人時代に親友から読むように勧められた八木重吉氏の作品でした──八木重吉氏の作品には まったく虜になった、彼の作品は今でも愛読書です。

 社会人になってから、日本の詩や西洋の詩 (翻訳) を読むようになったけれど、ほとんど惹かれはしなかった。たとえば、ヘルマン・ヘッセ 氏やゲーテ 氏の小説・評論には すごく惹かれたのだけれど、彼らの詩を読んでも感応することはなかった。私の読んだ西洋詩は すべて翻訳でした、ドイツ 語を ドイツ 人と同じくらいに運用できて ニュアンス をわかれば、原文を読んで感動するのかもしれないけれど、いかんせん ドイツ 語は私にとって──私に限らず、ほとんどの日本人にとって──日本語と同程度に運用できないでしょう (ドイツ 語を学習している人であっても、ドイツ 人と同じくらいの ドイツ 語の運用力がなければ、そうでしょう)。長年 学習してきた英語ですら、たとえば、キーツ 氏や ホイットマン 氏の詩を読んでも、英語の ニュアンス を私は わからない。母国語と同じ程度に他言語を運用できる力がなければ、厳正に言えば 他言語の詩だけではなくて小説も味わうことはできないのですが、小説のほうは詩に比べて文字数が多いし 物語の構成が はっきりしているので ニュアンス がわからなくても ストーリー がわかるので、われわれは他言語の小説を 或る程度 わかった気になっているのではないか。ウィトゲンシュタイン 氏は私の愛読書ですが、彼は次のように言っています──「哲学は詩のように書かれるべきだ」 と。私は、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を読んで惹かれていますが、畢竟 彼の思いに辿り着くことはできないでしょうね。単純に言ってしまえば、「言語の壁」 (言い替えれば、生活様式を共有していない) というのは、そういうことなのでしょう。

 私の思考を刺戟するのは、確かに西洋の作品です──たとえば、ヴァレリー 氏や アラン 氏が そうです。しかし、私の感情を揺さぶるのは、日本人が創った和歌・詩です──たとえば、西行・良寛・芭蕉・八木重吉・山頭火の作品です。芭蕉は次のように言っています (「黒冊子」)──

    俳諧の益は俗語を正すなり。つねに物をおろそかにすべからず。

 和歌・俳諧・詩というのは、感性が結晶化された ことば なのでしょうね。それが散文とはちがう特徴でしょう。そして、感性を ことば に結晶化する力が小林秀雄氏の言う 「眼の力」 ということなのでしょう──つねに物をおろそかにしないで、ことば と感性との統一した極みを観る、と。 

 
 (2022年 5月15日)


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