anti-daily-life-20221201
  × 閉じる


Take my yoke and put it on you, and learn from me,... (Matthew 11:29)

 



 小林秀雄氏は、「金閣焼亡」 の中で次の文を綴っています。

     真似は尋常な行為である。子供は、理解する前に、先ず
    真似をしなければ、大人にはなれないし、私達の生活の大
    部分は人真似で成立っている。真似をするには、他人の存
    在が必要であるのみならず、他人への信頼が必要である。
    両者は、私達の尋常な生活感情のなかでは、一つのものだ。
    私達が人真似を殆ど意識しないのも、この感情が、私達に
    は如何に根強く、又解り切ったものであるかを語っている。

 「模倣と私淑とは別のことだ」 (ラングバイン、「教育者としてのレンブランド」)。小林秀雄氏は、子供の真似についても言及していますが、彼が言っている真似というのは、引用文の後ろのほうを読めば、「私淑」 のことでしょうね──「他人への信頼が必要である」 と彼は言っているのだから。「私淑」 は、直接に指導をうけてはいないが、その人を慕い、その人の言動を模範として学ぶこと、「私淑」 に似た ことば として、「親炙 (しんしゃ)」 という ことば があるのですが、辞書によれば、「親炙」 とは 直接 教えをうけている人に対して使うとのこと。私は、この歳 (69歳) になるまで、「私淑」 を使ってきましたが、生まれてこのかた 「親炙」 という ことば を使ったことがなかったし、おそらく今後も使うことがないでしょうね。私が 本 ホームページ で ときどき 引用する好きな ことば のなかに、「信じるほかに別の仔細なきなり」 という ことば があります。この ことば は、親鸞聖人が法然上人の教えについて語った ことば ですが、親鸞聖人は法然上人から教えを直接にうけているので、「親炙」 であって 「私淑」 ではないのですね。

 自我がめざめる年頃 (高校生、大学生) には、学校での学習のほかに書物を 数々 読んで、「私淑」 が自発的にはじまるのではないかしら。私が若い頃から 「私淑」 してきた人たちは次の人たちです (「親炙」 してきた人たちは除きます)──道元禅師、澤木興道老師、荻生徂徠、亀井勝一郎、小林秀雄、ウィトゲンシュタイン、アラン、ヴァレリー。それらの人たちを私は真似してきたのだから、私の思考法や生活態度を この エッセーの読者は 或る程度 推測できるでしょう。道元禅師、澤木興道老師、亀井勝一郎、ウィトゲンシュタインについては、それぞれ全集を私は所有して読み込んできました。私くらいの程度の凡人は、彼らの猿真似に終わらないように、凡人は凡人なりに懸命に読み込んできました。彼らのような天才・高才を凡人が真似するのだから、彼らの考えを凡人のわかる範囲でしか真似できないのですが、模倣は創造 (独創) を導く切っ掛けになると私は思っていて、来るべき創造を ひそかに準備してきた次第です。「上手な模倣は最も完全な独創である」 (ヴォルテール、「書簡集」)、私のような凡人には天才・高才を 「上手に」 模倣できないけれど、彼らを模倣すれば凡夫は凡夫なりの独創をうむことができるはずだと私は信じています。「信じるほかに別の仔細なきなり」、相手を信頼して模倣する、それが 「私淑」 ということでしょう。読書のたのしみは色々とあるのですが、それらの たのしみの一つが、「私淑」 する師を得るということでしょうね。

 
[ 補筆 ]

 「真似」 については、かつて 本 ホームページ のなかで、いくどか 記述してきたので、「真似」 の意味を考えることを本 エッセー では避けました。「真似」 については、「反 コンピュータ 的断章」 の次の 2つの エッセー のなかで綴っているので、読んでみてください──

    (1) 「至花道」 (世阿弥)

    (2) ambition

 これらの エッセー は、11年前と13年前に綴られた エッセー ですが、今の私の考えは これらの エッセー に綴った考えと変わってはいない。それらの エッセー と重複しないように、本 エッセー では、私が真似してきた人たち (すなわち、私淑してきた人たち) を具体的に挙げてみた次第です。

 
 (2022年12月 1日)


  × 閉じる