anti-daily-life-20221215
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Such knowledge, however, puffs a person up with pride, but love builds up. (1 Corinthians 8:1)

 



 小林秀雄氏は、「金閣焼亡」 の中で次の文を綴っています。

     風景に対する愛や信頼がなければ、風景画家に風景と
    いうものは存在しない。そうして出来上った風景画は、
    見る人に愛や信頼を要求している。かような要求に共鳴
    するからこそ、美しい形の知覚は、動かし難く、堅固なもの
    になるのである。かくの如きが、美しい形の持つ意味なの
    であり、意味を欠いた美しい形は、忽 (たちまち) ち安定
    を失う。

 小林秀雄氏の この言を私は セザンヌ の風景画や モジリアニ の裸体画 (及び 「青い目をした女」) そして ロダン の彫刻を観て痛切に感じました。美しい形として造形された作品のなかの 「愛や信頼」 に感応することが鑑賞ということではないかしら。「意味」 は 「形 (形式)」 に載って運ばれるということを 「瞬時のうちに」 悟らせてくれるのが絵画や彫刻でしょう──絵画や彫刻は、空間のなかで情緒のマッス [ 質量 ] として立っていると云ってもいいでしょう (文学作品や音楽作品は、読んだり聴いたりする 「時間の流れ」 の末に感得できる形式でしょうね)。

 一流とか名作と云われる作品の前に立てば、我々は正直な態度を強いられる、それが名作の力でしょう。名作は、批評などに びくともしない──批評などは饒舌にすぎないというふうに 木っ端微塵に砕かれてしまう。名作は、われわれを作品のなかに一跳直入に引き入れてしまう。作品を観たときにうけた、言うに言われぬ 「感動」 (「あはれ」 としか表せない感情/情緒) が我々と作品を結ぶ土台 (架け橋) となる。「かくの如きが、美しい形の持つ意味なのであり、意味を欠いた美しい形は、忽 (たちまち) ち安定を失う」。そして、芸術作品に惹き込まれ、そこで味わった強度の情緒及び余韻のなかに浸れば、そこから離れて、現実の日常生活へ戻り難い、、、。

 「文学青年」 は、絵空事を信じて頭がお花畑になっているのではない、寧ろ 「愛と信頼」 という普遍の正しさに閉じこめられて身動きができないのである。現実生活に戻るという動きをとれば、己れの感じたそして信じたものが壊れてしまうことを恐れているのである。だから、作品から感じた情緒の世界に自閉し欲するままに自らの世界観を こじらせることができるのである。作品が描いている 「愛や信頼」 が、「文学青年」 という閉ざされた世界では、いつのまにか変質して──固執して──、他人への 「信頼」 が欠如してしまうのである。このことは、「文学青年」 気質の強い私が自ら告白しているのだから、先ず間違ってはいないでしょうね (苦笑)。勿論、本物の芸術家 (や小林秀雄氏のような本物の批評家) は、こういう悪病を患うような精神の脆弱性など持ちあわせていないでしょう、そうでなければ作品を創ることなどできない。「金閣焼亡」 の最後のほうで小林秀雄氏は、「方丈記」 を引用しつつ次の文を綴っています──

    人間の狂気の広さに比べれば、人間の正気は方丈ぐらい
    のものだと彼は言っているのである。俗物も嫌い、聖人も
    嫌いで、こんな処で一体何をしているのだ、と彼は自問
    してみる、「その時、心、更に答ふるところなし」 と言う。
    そういう時には、当てもない念仏なぞ、舌の根を借りて、
    ぶつぶつ両三べん唱えて置くのだ、と言う。これは人間
    正気でいることで沢山だという意味だ。

 
 (2022年12月15日)


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