anti-daily-life-20230101
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The Lord knows that the thoughts of the wise are worthless. (1 Corinthians 3:20)

 



 小林秀雄氏は、「偶像崇拝」 の中で次の文を綴っています。

     私は屢々思う事がある、もし科学だけがあって、科学的
    思想などという滑稽なものが一切消え失せたら、どんなに
    さばさばして愉快であろうか、と。合理的世界観という、
    科学という学問が必要とする前提を、人生観に盗用なぞし
    なければいいわけだ。科学を容認し、その確実な成果を
    利用している限り、理性はその分を守って健全であろう。

 数学 (数学基礎論、あるいは Logic) の世界では、項 (変数・関数・定数) を使って、ひとつの形式的 「構造」 をつくる清潔な論理だけが通用します。その清潔な世界では、或る対象範囲のなかで生起する 「運動の連鎖 (原因-結果の関係)」 が 「構造」 として構成されます。「構造」 は、次の 3つの関数から構成されます──

  (1) モノ の性質 ( f (x):クラスともいう)
  (2) モノ と モノ との関係 (R (a, b))
  (3) モノ から モノ をつくる関数 ( f (x, y))

 「構造」 というのは、関数すなわち順序と関係にほかならない。論理の記号化は、私のような数学の門外漢にとって、「厳密性」 の化け物みたいな恐ろしい怪物であって──数学者たち・哲学者たちは、それを 「極度に純粋で、きびしい完成能力」(ラッセル、『数学研究』)と言うでしょうが──、怖じ気をふるってしまいます。しかし、小林秀雄氏の言うように、「その確実な成果を利用している限り、理性はその分を守って健全であろう」。

 「理性はその分を守って健全であろう」 というのは、構文論に限っての話です。そして、ここで厄介な問題が浮上してくる、その理性を発動する誘因は何か、という問題です。理性を行使するのがわれわれの人体であるので、理性に絡んでくる精神 (知・情・意) を外して Logic を語ることはできないでしょうね。つまり、思考は、われわれの総体としての一身のなかで起こる現象です。ゆえに、その人の人生観を抜きにできない、「もし科学だけがあって、科学的思想などという滑稽なものが一切消え失せたら、どんなにさばさばして愉快であろうか」。

 私は、日本科学哲学会の会員です。そして、「幽霊」 会員です (苦笑)──学会から発刊されている論文集を ときたま読みますが、学会で発表したこともなければ、学会の活動に関与したこともないです。科学哲学とは、、、そういう大きな論点について、科学者でもないし哲学者でもない私が語り得る論点ではないし、「文学青年」 気質の強い私は どちらかと言えば、科学 (あるいは、数学) を 「文学」 的な観点から眺めているようです。「偶像崇拝」 という ことば は、現代では、ほぼ否定的に語られているのではないか。科学がもたらした合理的世界観が その厳密性を骨抜きにされて世俗に流布するにつれて、いわゆる 「知識人」 と云われている人たちが いっぱし 「合理的 (?)」 な思考をしていると思いあがって、中世的匂いが付着した 「偶像」 を蔑視するというような現象が定着したのではないか。しかし、小林秀雄氏は 「偶像崇拝」 を否定していない、彼は 「偶像崇拝」 のなかで次の文を綴っています──

    言葉を扱う詩人は物的造形をしていないかの様に見えるが
   それは外観に過ぎない。リズム という全く物的なものの形成
   は勿論の事だが、一つ一つの言葉にしても、海と言えば、あの
   冷い塩からい海の事だし、悲しみと言えば、あの切ないやり切
   れぬ悲しみの事だし、という風で、直ちに事物が換気される様
   にしか言葉は取り上げられない。という事も、感知する物は何
   かと問わず、感知するがままに物を容認する詩人の偶像崇拝
   的態度から来る。そういう風に考えて来ると、近代思想を宰領
   と自負した近代の哲学の行ったところは、自己の大系から、
   比喩も暗喩も、要するに言葉の偶像崇拝的使用法を一切追放
   しようとした試みだと言えよう。併し、言葉というものの性質上、
   そういう試みの成功は疑わしく、寧ろ止むなく失敗した個処に、
   何かしら人間的な意味が現れるという始末となった。言葉は、
   その破り難く堅固な物性と観念性との合体によって、人間の
   生存に直結しているから。近代の偶像破戒の思想戦に於て、
   決定的に勝利を得たのは、語った真理を実証し得た科学だけ
   ある。

 この文の次に先に引用した 「私は屡々思う事がある」 の文が続いています。そして、その引用文の次に続くのが以下の文です──

    これに準じて感情は、真面目に偶像崇拝を行って恥じる処は
   ないだろう。そんな事を空想する。芸術家は、皆根本のところ
   では偶像崇拝家なのである。ただ、偶像破戒的自己批判を
   最も烈しく行ったのが文学という芸術領域であり、散文は詩と
   いう肉親を殺して華々しい勝利を得た。この勝利が、実は疑わ
   しく曖昧なものでなければ幸いである。偶像破壊が、あまり
   うまく行き過ぎた事について、作家等が内心の不安を隠しおお
   せれば幸いである。

 私が いわゆる 「知識人」 の偶像破壊を うさん臭く思っている点を小林秀雄氏は見事に代弁してくれています。科学の合理的世界観を骨抜きにして 「精神」 の領域のなかに適用する似非科学を私は嫌悪しています。拙著近刊のなかでも引用しましたが、科学と芸術とのちがいを的確に示した次の ことば を私は私の思考・感情の判断規準 (ものごとを語るときの規準) にしています──

    芸術は私である。科学はわれわれである。
    (クロード・ベルナール)

 
 (2023年 1月 1日)


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