anti-daily-life-20230201
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when I say how great is my sorrow, how endless the pain in my heart (Romans 9:2)

 



 小林秀雄氏は、「感想」 の中で次の文を綴っています。

     私の気質は、文化の指導者を、あまり信用しない。指導
    者には、悲しみは適さない。悲しみには独白しかないだろ
    うが、雄弁も空想も信じやしない。独白を普遍的な思想に
    まで作り上げる能力が私にないとしても、私が自分の独白
    を信じてはならない理由にはならぬ。凡 (すべ) ての大
    思想は、その深い根拠を個人の心の中に持つという事が
    信じられなければ、それは文学者たる事を信じない事で
    ある。その点では、私の心は既に決っている。

 私は、小林秀雄氏のこの言に共感 (賛同) します。「凡 (すべ) ての大思想は、その深い根拠を個人の心の中に持つという事が信じられなければ、それは文学者たる事を信じない事である」、小林秀雄氏は文学者なので、「その点では、私の心は既に決っている」 と言っていますが、文学者ではないけれど一般の文学愛好家もこの意識はもっているのではないか──「文学青年」 の私は、勿論、この意識を強く抱いています。文学というのは一体どういうものなのかは文学の専門家でもない私には分からないけれど、私が読んできた文学作品には 「笑いながら泣いている、泣きながら笑っている」 という言うに言われぬ 「あはれ」 という感動が作品のなかに流れる基調があるように私には思われます。

 高校生の頃から 30歳代のあいだ、私は文学・哲学の書物を多く読んでいました、そして 40歳代から 50歳代には、文学作品を ほとんど読まなくなって、数学 (数学基礎論)・哲学の書物を専ら読んできました。この読書遍歴は、今振り返ってみれば、私にとって とても有益だったと思う。私の読書遍歴は、文学と数学 (数学基礎論) と哲学・宗教に集約することができる。昨年 7月に出版した拙著では、これらの読書の足跡が はっきりと刻まれています──拙著の原稿を読み返して、そう思う。私の仕事は、一応 システム・エンジニア の職ですが、私は システム・エンジニア や プログラマ であった ためし がない──その実態は、「文学青年」 が大嫌いだった数学 (数学基礎論) の書物を読んで、モデル 論の一つの具体的な適用を 30年のあいだ考え続けた、ということでしょうね。だから、一つの テーマ を追究しながら、その過程には、つど出版してきた拙著 (1998年「黒本」、2000年「論考」、2005年「赤本」、2009年「いざない」、そして昨年の拙著) のなかに、私の思考・精神の遍歴が刻まれています。

 作家 (小説家) になれなかった──文学が好きだったけれど、作家になる努力をしてこなかった──そして若い頃には自惚れの強い・協調性のない社会的落伍者の私が 曲がりなりにも社会のなかでやってこられたのは、数学 (数学基礎論) の モデル 論を学習してきた恩恵であったし、数学 (数学基礎論)を学習してきて、数学の門外漢が数学を学習して陥りやすい 「法則症候群」 を患わなかったのは、文学・哲学 (と宗教 [ 禅 ]) の書物を読んできた恩恵であったと思う。最近、亀井勝一郎氏の 「西洋の知恵」 を再読して、私が改めて キリスト のすごさを認識させられた一文を見出しました──

     さきに述べたように 「罪なきもの」 という一語が決定的
    なのだ。姦淫の罪を犯したものはこの女一人だけではない。
    あらゆる人間が、外面はともあれ心の中でそれを犯している
    のではないかという暗黙の詰問がある。「色情を抱きて女を
    みるものは、心のうちすでに姦淫したるなり」 という言葉
    がここに明確に自覚されていたであろう。内在的な意味での
    罪の意識を、周囲の人々に一瞬にして呼び起したのである。
     聖書は訴えた者らが良心に責められて一人々々立ち去った
    ことをしるしているが、内在的な罪の自覚のうながしによっ
    て、各人は自己の内部に 「偽善者」 を感じたのである。
    このとき彼をとりまいていたのは群衆だが、群衆を一人々々
    に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省
    を一瞬にしてうながしたところに キリスト の権威があった
    と云ってよかろう

 なお、上に引用した文のなかで下線は私が引きました。「群衆を一人々々に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省を一瞬にして」 遡及し、そして その意識を (言語がわれわれの表現であるように、改めて) 社会に敷衍して社会の表現とするのが文学・宗教ではないか。

 
 (2023年 2月 1日)


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