anti-daily-life-20230301
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and those who hear it will come to life. (John 5:25)

 



 小林秀雄氏は、「マチス 展を見る」 の中で次の文を綴っています。

     人間は他人を説得しようなどと思わぬ人間にしか決して
    本当には説得されないものである。

 納得。もし、私が説得されるほうの人であれば、説得しようとしている人に対して── その人が身内や友人であっても──寧ろ反感を覚えるでしょうね。私が師と仰ぐ人たちは、私の考えを説得しようとは決して思っていない人たちです。そういう人たちは自らの思想と つねに真摯に向きあって己れと戦ってきた人です。だから、彼らは他人を説得しようなどと思ってもいない。彼らが己れの思想と真摯に向きあい戦っている すがた を観て、私は惹かれて、私自らの考えを促される。

 やむにやまれぬ内心の揺れに苦しめられている人々や己れの行為だけでは満足を覚えていない人々は、同じように そういう状態にある人たちが真摯に己れと戦っている すがた を観て惹かれるのではないか──否、惹かれるというよりも、私の心のなかに一瞬のうちに直入してくる。真摯に己れと向きあっている人物の純一さを感じて、私が 「嗚呼 (ああ)」 という感嘆の声しか発することができない感応というのが まさに説得された状態ではないか。

 純正に論理的な世界 (数学などの世界) を除けば、理由-結果の筋道を論理的に示すことが必ずしも説得できる訳ではないのは われわれが 日頃 体験していることではないか──論理のみで説得できないのは、論理とはべつの要因 (たとえば、感情) が介入してくるからであるなどという そんな単純な わかり切ったことを私は言っているのではない。説得というのは、他人を説得しようなどと思わぬ人物の 「全体」 像の中から (from within) しか出て来ない モノ (something) を われわれが感応したときに はじめて成されるのではないか。だから、それに感応する人たちもいれば、感応しない人たちもいるというのが事実でしょう。「芸術家よ、形成せよ。語るなかれ」 (ロダン の ことば)、畢竟 自らの人生を生きよ、ということに尽きるのではないか、そして その生きかたに感応して説得される人々もいれば、そうでない人々もいるということでしょうね。

 
 (2023年 3月 1日)


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