anti-daily-life-20230601
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Why are you alarmed? Why are these doubts coming up in your minds? (Luke 24:38)

 



 小林秀雄氏は、「『白痴』 について」 の中で次の文を綴っています。

     複雑な人間達は恐ろしくない。相対主義や懐疑主義に覆わ
    れて、彼らの生活には、生の無気味さを、直接指示するもの
    が現れないからである。彼等も、人生は謎だと言うが、それ
    は、各人各様のあり余る諸解決の間をさまようという意味で
    あり、人生という一つの謎がそのまま深まるという様な事は、
    起り得ない。彼等は絶えず問うが、答えられる様に工夫した
    問いを次々に発明しているだけであるから、最後の問いに
    衝突するという様な事は起らない。

 「論理 (論理規則)」 のみが 100%前提にされている数学・科学のような領域を除けば、小林秀雄氏の言うことを私は納得します。ただ、我々は、その清潔な 「論理」 の世界を鏡 (規範) にして、日常生活のなかに 「論理」 を導入している──そして、論理的思考というのは、そうせざるを得ない。しかしながら、このときに いわゆる 「公式主義」 という落とし穴に陥りやすい。

 「論理」 では、推論の 「前提」 が正しく立てられていることを問われる──正しい 「前提」 に対して、妥当な論理規則を適用すれば、正しい答えが必ず導出される、というのが 「論理」 の規約です。しかし、我々の日常生活では、推論の 「前提」 を正しく立てるというのは難しい。だから、「論理」 を使うときに、我々は日常生活 (人生) のなかで起こる現象について、「前提」 を単純化してしまう。小林秀雄氏の ことば を借りれば、「彼等は絶えず問うが、答えられる様に工夫した問いを次々に発明しているだけである」。それは、まるで ChatGPT と会話していて、我々の問いに ChatGPT が応える答えみたいな当たり障りのない答え (すでに存る答え) を期待した問いを投げかけているような感覚と同じではないか。問う前に すでに ソリューション が存るというような本末転倒が起こる、そして この態度は 「結果がすべてである」 という行為の大切さを唱えるには、都合よく悪用されやすい──しかも、そうなれば、「論理」 を使っていると思いながらも、「論理」 とは逆の思考に陥っていることを忘れてしまう。ヒルベルト 氏 (数学者) は次のように言っていたではないか──「問題が正しく立てられれば、それはすでになかば解かれたのである」、これが 「well-defined」 という 「論理」 の鉄則でしょう。

 「公式」 を参照項 (frame of reference) にするというのは 勿論 正しいけれど、およそ 我々が個性を有しているからには、我々の人生に対する対応というのは、それぞれの人がそれぞれの思いをもって生きている限り、個性あるものになるのは当然ではないか。そして、生活するだけでは足らぬと思って、自らの表現を模索していれば、自ずと 「人生の謎」 に翻弄されて、その謎に対して即答できる訳などないでしょう。ただ、そのように真摯に思考する人というのは、「公式主義」 に罹 (かか) った人たちのなかにいたら浮いてしまうでしょうね。そのような真摯な思考 (および、観察眼) を追究していけば、文学・哲学にいくつくのではないか。ただ、そういう領域 (文学・哲学) のなかにも 「公式主義」 を患った人たちが うじゃうじゃ いるようですね (苦笑)。

 
 (2023年 6月 1日)


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