anti-daily-life-20230615
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Don't be afraid of anything you ar about to suffer. (Revelation 2:10)

 



 小林秀雄氏は、「『白痴』 について」 の中で次の文を綴っています。

     ドストエフスキイ は、彼自身の語法を借りれば、たとえ、
    私の苦しい意識が真理の埒外にある荒唐不稽なもので
    あろうとも、私は自分の苦痛と一緒にいたい、真理と一緒
    にいたくはない、と考えたに相違ない。真理とは、人中に
    持ち出しても恥をかかぬ話題以上の何物であるか、と叫び
    たかったに相違ない。

「私の苦しい意識が真理の埒外にある荒唐不稽なものであろうとも、私は自分の苦痛と一緒にいたい、真理と一緒にいたくはない」──「生きる」 というのは、まさに そういうことではないか。ここでいう 「真理」 というのは、すでに説き明かされた筋道 (物事のそうあるべき ことわり、あるいは われわれが行うべき正しい道) という意味として私は捉えています。

 「論理 (Logic)」 が純正に運用される数学・科学を除けば、われわれの生活のなかで考えられる 「充足理由の原則」 では、一連の事象において 「前提」 (理由、前件) を定立することはむずかしい、ややもすれば 「結果」 (結論、後件) から遡及して 「結論」 に対して齟齬を生じないように 「前提」 を都合良く後付けしてしまう。あるいは、汎化された 「結論」 を広範に大雑把に (むやみやたらに) 適用してしまう。特に、人生の 「真理 (?)」 を端的にあらわしていると云われている諺・格言・箴言などを読むときには、うっかりすると この罠に陥ってしまう。いわゆる 「公式主義」 の罠でしょう。

 人生を まるで知り尽くしたかのように、「真理というのは単純なものだよ」 と言い放っている人たちを私は見てきましたが──実際、かつて (私が 20歳代の頃) 私に向かって KISS (Keep It Simple, Stupid) と言った上司がいましたが──、私は思わず失笑してしまいました。仕事上では生産効率 (生産性) を重視するので、上司が言ったことは正しいのでしょうが、「文学青年」 気質の私には承知できなかった。私は物事を考えすぎて仕事のできない ヤツ だった。上司は私のことを仕事ができそうな ヤツ として期待感を抱いていたようだけれど、私は仕事や会社の人間関係を嫌いだった。「文学青年」 気質の強い人は、感受性が強く、社会を低俗とみなして、仕事上、折りあいをつけるのが なかなか難しい。当時、私は、仕事と人間関係が嫌で嫌で、わずか数年の間に転職を 4回くり返していました。私は社会不適合者 (落ちこぼれ、ドロップアウト) だと自覚していましたが、いっぽうで そういう自分に絶望していた訳でもなかった──文学書をたくさん読んで、頭のなかでは 「社会の真理 (?)をわかったつもりでいた文学青年」 は社会のなかで実体験する以前に社会を見下していました (苦笑)。私が 30歳すぎの頃に転職した A 社では、そんな 「文学青年」 でも伸び伸びと仕事ができる機会が偶然に訪れました (この点については、かつて綴っているので割愛します)。今になって振り返ってみて、その機会が訪れていなかったならば、私の人生は悲惨な状態になっていたでしょう (その機会を私に与えてくださった当時の上司数人に感謝しています)。

 A 社での仕事が その後の私の仕事の起点として今の仕事に至っています。システム・エンジニア でも プログラマ でもない 「文学青年」 が コンピュータ (データベース 技術、モデル作成技術) の仕事に携わってきて、文学と数学 (数学基礎論) のあいだで、それらを しだいに 按配 (あんばい) して、仕事では 「論理」 を尊重し駆使するけれど、仕事を離れたら 「論理」 が実現する純正な 「公式」「本質」「真理」 などという語を生活していくうえで信用しなくなった。 ドストエフスキイ ほどの天才の気持ちを私くらいの程度の凡人には なかなか わからないけれど、社会のなかで生活していくだけでは満足できないで 「みずからの表現」 を探し 足掻いている 「文学青年」 として、「真理とは、人中に持ち出しても恥をかかぬ話題以上の何物であるか、と叫びたかったに相違ない」 という彼の気持ちを私は痛いほど納得できる。

 
 (2023年 6月15日)


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