anti-daily-life-20230715
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But he bent over and wrote on the ground with his finger. (John 8:6)

 



 小林秀雄氏は、「ゴッホ の手紙」 の中で次の文を綴っています。

     感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を
    信ずる為には、書くという一種の労働がどうしても必要
    の様に思われてならない。書けない感動などというもの
    は、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に
    思い込んで了って、どうにもならない。

 「書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない」、私はこの意見には賛同し難い、というのは 感動を自らの内に納 (おさ) めて 感動したときの自らの気持ちを反芻するように自足して味わう人もいるので──私は、年老いてから、多々 そういう状態になることがある。ただ、若い頃には、私は 自ら感じた感激を なんとか 周りの人たちに伝えたいという衝動が強かった。まして、「文学青年」 であれば、その感動を書きたいという思いは いっそう 強いでしょうね。さらに、芸術家という表現者であれば、それこそ 「表現する」 ことが仕事なのだから。

 「書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない」 というのは、芸術家にとっては疑いもない吐露でしょうが、私のような程度の文才では、もし 自らの魂が揺り動かされるような心情が起こっても、それを正確に書き起こす技術がないので、その感動を書いても逆上 (のぼせ) としか伝わらないことのほうが多いように思う──私は天邪鬼になって そう言っているのではない、私とて芸術作品を観たり読んだり聴いたりして感動を覚える、しかし 他人 (および 自分) の文章を読んでいて 感動を覚えるというよりも逆上 (のぼ) せているなというふうに感じることのほうが多い (たとえ、もし その文章を書いた人が ほんとうに [ 純然として ] 感動していたとしても、、、その感動が純然たる心情だということを、表現された文を除けば、誰が知り得るのだろうか、、、)。

 若い人たちが書いた文章を私は読んでいて、若者にありがちな、思い余って舌足らずの せっかち を感じて、その文を読んでいる こちらが赤面することが多い──その理由は、たぶん 私の若い頃を思い出して、私の当時の稚拙さを思い知らされるからだと思う。そうかと言って、歳を重ねてきて、性急さ (せっかち) が次第に和 (な) いで [ 抑止されて? ] 穏 (おだ) やかになった訳でもない。引用文の 「意味」 とはちがう意味あいで、「そんな風に思い込んで了って、どうにもならない」。感動を表現したら、感動の本来の実在が壊れてしまうのであれば、感動を その純然たる状態のままに内に秘めておけばいいと思うようになったのは、文才のない私のような凡人の凡人なりの知恵なのでしょうね。

 
 (2023年 7月15日)


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