anti-daily-life-20230801
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They confessed their sins, and he baptized them in the Jordan. (Matthew 3:6)

 



 小林秀雄氏は、「ゴッホ の手紙」 の中で次の文を綴っています。

     いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにし
    ようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白
    とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現で
    あって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣
    な取引の写し絵ではないのだ・・・・・・

 自分自身というのは、社会のなかで他人との関係 (互いの行為のやりとり) において、自身の性質的な特徴を感知・認識していくのでしょうね。だから どうしても 他人との比較を前提にせざるを得ない、他人と比較することを免れない。「他人と比較するな、自分自身の道を歩め」 という説教を 多々 耳にするけれど、そう言っている ご本人が そういうふうにしているかと問えば、はなはだ疑わしい人たちを私は多く観てきました──他人事については、誰でも それなりに真っ当な意見を言うことができる、でも 翻って自身のこととなれば、えらそうな意見・説教など どこぞへ消し飛んでしまっている人たちが多い。或る程度の書物を読んでいれば、あるいは この ご時世、ウェブ を サーチ すれば、天才たちの ことば を入手することは たやすいことです──そして、天才たちの ことば を コピペ して、自分自身が それらの ことば を体得しているかのように思い込んでしまう (苦笑)。

 ことば というのは、「表現」 の術なのだから、「表現」 上 (構文論上) 矛盾のない文を作成することは、或る程度の知識があれば できるでしょう。それが文字列としての ことば の性質です。そして、その無矛盾な文が 「事実」 と一致しているかどうかは べつの話です。「事実」 と一致しているかどうかの検証は 「真理条件」 (規約 t、T-文) と云われています、そして その 「真理条件」 を 「論理」 (クラス 演算) 上 明らかにした人物が タルスキ (数学者)です、タルスキ の 「真理条件」 は次の通り──

    「p」 が真であるのは、p のときに限る。

 「雪は白い」 という文を例にすれば、真理条件は次のようになります──

    文 「雪は白い」 が真であるのは、雪が白いときに限る。

 タルスキ は形式言語 (クラス 算の言語) について真理条件を説いているのですが、この真理条件を自然言語に拡張した人物が デイヴィドソン です。デイヴィドソンの 「T-文」 は次のとおりです──

    言明 「p」 が真であるのは、時刻 t において、事態 p と
    対応するときに限る。

 「論理」 規則のみが通用する形式言語では、「全称」 を扱うので──すなわち、「無限」 または 「或る限られた範囲」 の 「すべて」 の構成員を扱うので──、われわれの実社会では、タルスキ の 「真理条件」 を完全な形で適用できない。いっぽうで、「論理」 規則は実社会へ適用されている、それが論理的思考というふうに云われている。そのために、デイヴィドソン は、自然言語では 「時刻 t において」 という制約束縛を導入しました。デイヴィドソン の 「T-文」 は、当たり前と云えば当たり前のことを言っているのですが、この当たり前のことが なかなか 遵守されていない──文そのものは無矛盾だけれど、「事実」 と一致していなければ、虚偽 (虚構・隠蔽・改竄) です。虚偽には、多義・曖昧・強調・合成・解体などがあるけれど、虚偽について語ることは本文の目的とは懸け離れるので、ここでは いちいち 詳細に述べるのを控えます。

 さて、「関係」 の論理では、二項関係は R (a, b) と記しています。他人と自己との比較 R (自己、他人) が社会の常態であるいっぽうで、R (自己、自己) という関係が自己認識の形でしょう、自己 そのものが自己存在のことです。そして、この認識を小林秀雄氏は「自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵」 と揶揄していますが、私も彼の意見に賛同します。自分の右手で自分の右手を掴むことなどできやしない──しかしながら、自己分析なんていう ことば は とても耳障りのいい ことば だね (笑)。小林秀雄氏は、彼の他の エッセー 「マルクス の悟達」 のなかで次のように綴っています──

    精神は精神に糧 (かて) を求めては飢えるであろう。
    ペプシンが己れを消化するのは愚かであろう。「私は
    考える、だが考える事は考えない」 と。デエテ は鼻唄
    でわれわれをどやしつける。こういう言葉は全く正しい。
    しかしわれわれは果してこれを覚えて誤らぬか。ここに
    理論と実践との問題の核心があるのである。

 私は、私の 「意識」 あるいは 「心」 (精神状態) を知りたいと思うとき、Jaynes J. (認知科学者) の次の ことば に信を置いています──

    「意識」 とは、「同時進行の自己記述」

 R (自己、自己) では、「意識」 が そのまま文になっているということが自然言語での 「真理条件」 でしょう。社会そして私の人生のなかで、「時」 は間断なく流れている、寸断などない。刻々と変化する時間のなかで、「いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現」 でしょうね。畢竟、ことば は それを言う人が大事になる、ことば は言う人に拠る。「この人を観よ」 としか言いようがない。他人の ことば を コピペ しても その ことば を体得していないことが直ぐに露呈する。天才たちは、一刻一刻 自らの仕事に対して工夫を凝らして、(昨日の自分自身に比べて) いっそう前進しようという倫理的意志を持続している。だから、過程が欠落した結果など誰が信用するのか、さらに 一つの結果は、間断ない 「時」 の流れのなかで 一つの過程でしかない

 
 (2023年 8月 1日)


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