anti-daily-life-20231001
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Some people have not listened to their conscience and have made a ruin of their faith.
(1 Timothy 1:19)

 



 小林秀雄氏は、「読書週間 21-二七」 の中で次の文を綴っています。

     私は、本屋の番頭をしている関係上、学者というものの生態
    をよく感じておりますから、学者と聞けば教養ある人と思う様な
    感傷的な見解は持っておりませぬ。ノーベル 賞をとる事が、
    何か人間としての価値と関係がありましょうか。私は、決して
    馬鹿ではないのに人生に迷って途方にくれている人の方が
    好きですし、教養ある人とも思われます。

 昭和時代の初期ならば いざ知らず、令和時代の今どき、学者を教養あるなどと思っている人はいないでしょう (笑)。実際、下衆 (げす) い学者を私は 幾人 も観てきました──出世のために ゴマスリ をする輩や 保身に走る輩や 陰で他人 (他の学者) の悪口を言う輩や 自己顕示欲の強い輩 等々。学問に従事しているからと云って 教養がある訳ではない、営利企業のなかで観られる人間関係の いやらしい様 (さま) は学会や研究室でも同じように観られる。勿論、教養があって高徳な学者も私は観てきましたが、極めて少数でした。そもそも 教養というのは単なる学識/多識とは無関係の性質でしょう。歴史に名を刻んだ天才だって、性格破綻者に近い人も多い。それは当然であって、仕事では天才であっても、社会のなかでは一人の生活者なので、我々凡人と同じように生活している。

 亀井勝一郎氏は次のように書き記しています──

     或る一つの事を徹底的に追究すると、必ず他の方で大きな
    穴が生ずるものだ。人はそれを偏狭とよび畸形というかも
    しれない。だが、仏典ではかかる精神を人格化して羅漢と
    名づけた。羅漢は菩薩の位にははるかに遠いかもしれぬ。
    しかし羅漢は菩薩の位を継ぐ唯一の候補者である。

 私は、天才を観ると、この文を 常に思い起こします。ただ、天才が一途に打ち込んで創作した作品には 当然ながら その天才が送ってきた人生 (および、彼/彼女の性質) が色濃く現れるでしょう、作品は天才の化身と云っていいかもしれない。このことを小林秀雄氏は逆説的に次のように記しています──

     私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を
    解しない。解する必要を認めない。実生活で間が抜けて
    いて、詩では一ぱし人生が歌えるなどという詩人は、詩人
    でもなんでもない。詩みたいなものを書く単なる馬鹿だ。

 自らの人生を賭して たずさわった仕事のなかで、自らが研鑽して熟練していく過程において 労働的倫理感や教養が養われて、己れの精神も成熟して高徳になる、というのが理想でしょうね。古い漢籍 (「論語」 など) や古い和本 (江戸時代までの芸事本、「花伝書」 など) には、そういう理想を目指すような風もあるけれど、当時とは違って 現代では 仕事が細分化・部品化されていて、このような体を実現するのは難しいでしょうね。

 それでも、そういう現代において、自らが成すべきことを為すために──たとえ、それが自由意志で選んだ仕事でなかったとしても──、他人に媚びず、他人の悪口も言わず、頬笑んで仕事をしている人たちを私は 極めて少数ながら観てきました──勿論、そういう人たちを仕事上で観たのであって、彼らの日常生活を私は知っている訳ではないので、ひょっとしたら彼らも独りになったときには他人の悪口を言っているかもしれない。ただ、他人との つきあい のなかで 彼らは そういう そぶりを 一切 見せないというのが すばらしいと私は思う (私には、できない)。そして、彼らは温和しいので、多くの人々から注目を浴びることもない。でも、私は、彼らに惹かれる。逆に、見得を切る (演戯する) ヤツ を嫌いです。おそらく、この喧騒雑多な社会のなかで、温和しい彼らは 内心では 数々の軋轢を感じていて、「人生に迷って途方にくれている」 のかもしれない。でも、小林秀雄氏の言うように、私も そういう彼らを好きですし、教養ある人だと思う。教養というのは、品性として現れるんでしょうね。

 
 (2023年10月 1日)


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