anti-daily-life-20231101
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All of you are Christ's body, and each one is a part of it. (1 Corinthians 12:27)

 



 小林秀雄氏は、「ハムレットとラスコオリニコフ」の中で次の文を綴っています。

     彼 (ラスコオリニコフ) は、自分は充分に孤独であると思って
    いる。併 (しか) し、彼は、実際には、人々と共にいなければ
    孤独ではない。人間はみなそうだ。誰も孤独を守ることなぞ
    出来ない。人中に孤独をさらし、方々に風穴を開けられるだけ
    である。

 「孤独」 の意味を 「仲間のないこと、ひとりぼっち」 というふうに 「解釈」 すれば、我々は それぞれ個性を有していて 誰一人として同じ人などいないし、そのいっぽうで社会生活を営んでいるので、「誰も孤独を守ることなぞ出来ない。人中に孤独をさらし、方々に風穴を開けられるだけである」 という小林秀雄氏の指摘は その通りでしょう。そして、「孤独」 が 厄介なことになって現れるのは、「孤独」 が (感覚として) 「孤独感」 になったときでしょうね──「孤独感」 と云えば、現代では 「疎外感」 が多分に付着しているようですね。私自身は、孤独感を抱いても疎外感を覚えることはないのですが、心理学の書物や SNS の投稿などを読むと 「孤独感」 は negative な [ 否定的・消極的な ] 感情として扱われているようですね、「孤独感」 には負の印象が付帯してしまった。

 多くの人たちが 「孤独感」 を感じる時期というのは、青年期と老年期ではないか。すなわち、青年期には、体力・知力が旺盛だけれど 社会に出たてで それらの力を存分に出すことができないので──意欲と実績との乖離のなかで──社会での己れの座標 (居場所) が定まっていない 「孤独感」 を覚えるだろうし、老年期には、体力・知力が衰えて (たとえば、定年退職を迎え) 社会での己れの座標を喪失した 「孤独感」 を抱くのでしょう。では、壮年期には どうなのかと云えば、社会的集団 (職場、家庭など) のなかで己れの意志を思い通りに実践しようとしても、集団のなかで行動しているので、或る程度の制約束縛を感じて 時には妥協せざるを得ない局面が 多々 起こって、己れの意見が通らないことに対して苛立ちや疎外感を覚えることも多いのではないか。すなわち、青年期・壮年期・老年期を通して、生きる [ 生活する ] とは、孤独のなかにあるということではないか、そして 「孤独感」 を覚えることは不可避であるということではないか。その 「孤独感」 を 「疎外感」 として感じるかどうかは個人の感性 次第でしょうね。

 私は、他の人たちといっしょにいるよりも 一人遊びのほうが好きなので、孤独感を抱いても 疎外感を覚えることはないと前述しましたが、それでも たまに 「オレ なんか この世にいなくてもいいのかもしれない」 と思うときがある── その気持ちは、決して 「疎外感」 から生じるのではなくて、あたかも 物質が液体中に溶けて均一な液体となる 「溶解」 現象に近い感覚です、一人遊び (ひとりぼっち) に満たされた状態の行く末は 案外 「拡散」 に近い状態なのかもしれない、その状態になったとき、或る種の幻覚が起こる、「一即多、多即一」 という幻覚です。己れが孤独の裡に充足していれば、他人もそうであるはずだ、という痛ましい幻覚です。書物だけ読んで、頭のなかだけで 「正義」 などの理想 (抽象概念) を考えている人が陥る幻覚 (魔境) です、仏教の云う 「一即多、多即一」 とは似て非なりという代物です。己れを中核とした 「孤独感」 なんて、此な所が此なものにや。生きる [ 生活する ] とは、深い孤独のなかにあることだとすれば、孤独、孤独と一々騒がないでも宜しいのではないか、「随縁に落入て真如を喪ふ」(「艶道通鑑」)。

 
 (2023年11月 1日)


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