anti-daily-life-20231115
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your young men will see vision, and your old men will have dreams. (Acts 2:17)

 



 小林秀雄氏は、「民主主義教育」 の中で次の文を綴っています。

     今日の絵の先生は、名画の模写を画学生にすすめ難くいだろう
    が、デッサン という基本を廃棄出来まい。作文教育でも、正確
    な写生文というものを基本とすべきである。写生の対象は、外部
    にあるはっきりした物に置くがよく、無定形な自分の心などという
    ものを書かせるべきではない。そんな事が上手になると、生徒
    は思い附きのなかに踏み迷う事が楽しくなり、遂に自分の個性を
    信じなくなるだろう。

 「写生の対象は、外部にあるはっきりした物に置くがよく、無定形な自分の心などというものを書かせるべきではない」──この文を私は痛いほど実感しています。デッサン では、先ず以て、写生対象の中心線と輪郭線を定めるでしょう。それができて はじめて対象を掴むことができる。そういう訓練を くり返して、画家は観る目を養っていくのでしょう。絵画について 私のような程度の シロート でも、ゴッホやピカソの作品を初期から年代順に観ていけば、それを はっきりと観てとることができる。ピカソは、次のように言っています──

    個性は、個性的になろうとする意志から生まれるものでは
    ない。独創的になろうと熱中しているひとは、時間を浪費
    しているし間違っている。そのひとに何かがやれたとして
    も、じぶんの好きなものを模倣したにとどまる。やればやる
    ほど、じぶん自身とは似ても似つかぬものを生むに終る
    のだ。(サバルテス、「親友 ピカソ」)

 「民主主義教育」 とか 「個性」 重視を標榜して、「みずからの観たことを ありのままに描く」 ことを学生に勧めても、行く末は 「じぶん自身とは似ても似つかぬものを生むに終る」。同様のことは、作文でも言えるでしょう、そして 厄介なことには 絵画が空間のなかで一目で感知できることに比べて 文章 (小説) は 一瞬で読破することはできないので 読むのに時間がかかる。「無定形な自分の心」 などを対象にすれば、生徒は 「思い附きのなかに踏み迷う事が楽しく」 なってしまい、それを個性だと思い違いしてしまう危険性が高い。しかも、その描写が正確であるかどうかも判断できやしない──「主観的心象を客観的に記述する」 には高度な作文技術が 当然の前提でしょう、作文技術がままならない生徒に対して 「ありのままに」 描くことを進めても、生徒は 「じぶんの好きなものを模倣したにとどまる」 (対象を正確に観ている訳ではない)。「情緒よりも構造」(構文論が先で、意味論は後)──この原則は そうとうな力量を習得した後でも最高の鉄則でしょう、そして技術を最高級に習得している高才のなかから、「構造 (形式)」 に収まり切らない 「情緒」 を表現できる天才が現れるのでしょうね、天才は 「構造 (形式)」 を破して (破壊して)、新たな技術/構造を創る。このことは芸術に限らない、われわれの社会生活でも歴史を観れば革新的な技術として現れてきたし、そうやって社会は変革されてきました。

 「考えるな、観よ」 (ウィトゲンシュタイン)、先ずは 具体的な形を観て正確に記述する技術を習得することが大事でしょうね。私は、若い頃、小説をたくさん読んできたけれど、小説のなかで 風景の描写があれば、それを読んでも退屈で うっとうしく感じて、ほぼ読み飛ばしていました、思想/内面を洞察する自己表白ばかりを注視していました (苦笑)。風景を正確に描くということは、心象を正確に描くということが当時の私にはわからなかった、、、あの頃 (若い頃)、風景描写を もっと丁寧に読んでいれば、老齢になって今さら気づくこともなかった。

 作文技術を養うには、身のまわりの事物 (具体的な物) を記述してみるのが いちばんの確実な仕方ではないか──デッサン は物の形ではなくて、物の形の見方でしょう、それは よく考え、よく感じ、よく表現することではないか。したがって、文法と語彙を使って文を構成する力を養う、そして 具体的な物を前にして ことば の貧弱さを痛感してはじめて作文の難しさがわかるのではないか。それゆえ、語彙や それを使った文の構成を工夫せざるを得なくなる、その工夫が 「文体」 となって現れる。そういう困難に直面しないと、作文の難しさと たのしさがわからないのではないか、そして作文が巧くならないのではないか、いつまでいっても 「思い附きのなかに踏み迷う事が楽しくなり」「じぶんの好きなものを模倣したにとどまる」。文章を書くということは、「文体」 を見つけることで、思想は後からやって来る──齢 70にして、やっと (今さらながら) 気づいたことです (苦笑)。

 
 (2023年11月15日)


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