この ウィンドウ を閉じる

Let us celebrate our Passover,... (1 Corinthians 5-8)

 



 小林秀雄氏は、「現代女性」 の中で次の文を綴っています。

     未だ来ない日が美しい様に、過ぎ去った日も美しく見え
    る、こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、
    歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、
    現在というものを理解する事は、誰にもいつの時代にも
    大変難しいのである。歴史が、どんなに秩序整然たる
    時代のあった事を語ってくれようとも、そのまま信じて、
    これを現代と比べるのはよくない事だ。その時代の人々
    は又その時代の難しい現在を持っていたのである。少なく
    とも歴史に残っている様な明敏な人々は、それぞれ、その
    時代の理解し難い現代性を見ていたのである。あらゆる
    現代は過渡期であると言っても過言ではない。

 最近の 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 では、「歴史」 についての ネタ が多いですね、、、でも、それは偶然にそうなったのであって、私が意図していた訳ではない。ただ、「歴史」 の話題が これほど続くと、私は荻生徂徠の ことば を思い起こします──「見聞広く事実に行わたり候を、学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」。

 さて、過去が美しく見えるのは 「思い出の 『結晶作用』」 の結実であり、未来が美しいのは我々の願望に根ざしているからでしょう──過去の出来事も未来への想像も具体性を欠いた大まかな観念として現れるしかない。そして、その挾間に在る現在は、個々の具体的な事物 (人、物および出来事) に充たされ 「延長」 をもった広大な空間です。過去および未来には 「延長」(物体) はなくて、「意識」 上の想起でしかない。

 過去と現在は、相関関係 (時系列上の前件・後件の因果関係) において把握できるけれど、現在は過去をふくんでいるので、比較することは意味がないでしょう── 100年前の日本と現在の日本を比べて、「現在の日本は民主主義が進んでいる [ あるいは、昔の日本は野蛮だった ] 」 とか、「鎖国をしていた江戸時代は、現在の日本に比べて、独自の文化が花開いていた」 というような比較は無意味でしょう。現在は時系列 (時空) の つねに先頭にあって、その時空のなかで具体的な事物に囲まれて我々は生活していて、そして未来を計画しながら我々の歩んだ跡が そのまま過去になっていく。

 現在からみて半世紀前の考えかた・風習などを 「昭和的」 というふうに言っていた人が居ましたが、その言いかた (「昭和的」) に対して私は不快感を覚えました。私が不快感を覚えた理由は、その言いかたが (昭和時代を) 十把一絡げにして (昭和時代と平成時代を比較して) 昭和時代の考えかたを 「古い」 というふうに短絡的に論じていたからです。昭和64年と平成元年では、はっきりとした断絶があるのかしら [ 否 ]。しかも、昭和時代は、初期 (昭和20年程まで) と後期 (昭和40年から昭和64年まで) では風習も大きく変わってきている。

 歴史は、正確な時間軸の上を、実に ゆっくりと流れています。そして、ゆっくりとした その流れは、「独りの力では始末できないように、この世の中はなっているのである」 (柳田国男)。「その時代の人々は又その時代の難しい現在を持っていたのである」、その時代の人々はその時代の 「延長」 をもった広大な空間のなかで工夫しながら生活していたでしょう。歴史とは、過去に在った出来事の単なる記録ではなくて、現在からみて或る意図 (視点) をもって過去を再把握することであるとしても、現在と過去を比較して、過去の社会を時代の制約に束縛されて立ち後れていたとみなすのは、現代人の驕りではないか。

 
 (2018年11月15日)


  この ウィンドウ を閉じる