この ウィンドウ を閉じる

I can do nothing on my own authority;... (John 5-30)

 



 小林秀雄氏は、「文科の学生諸君へ」 の中で次の文を綴っています。

     人間は自分の姿というものが漸次よく見えて来るにつれて、
    自己をあまり語らない様になって来る。これを一般に人間が成熟
    して来ると言うのである。人間は自己を視る事から決して始めや
    しない、自己を空想する処から始めるものだ。この法則は文学
    を志す様な人にはつよく現れるのである。元来理屈から言って、
    自己の姿などというものはいつまで経っても見えるわけのもの
    ではない。己れを知るとは自分の精神生活に関して自信をもつ
    という事と少しも異った事ではない。自信が出来るから自分と
    いうものが見えたと感ずるのである。そしてこの自信を得るの
    にはどんなに傑 (すぐ) れた人物でも相当の時間を要するのだ、
    成熟する事を要するのだ。

 齢 (よわい) 64 になって、私の生活を振り返ってみれば、小林秀雄氏の言うとおりだと思う。若い人たち (20才代、30才代の人たち) が、自信を持って しゃべっているのを見て、40才代以上の年配者は、たぶん、次のように言うのではないか──「あの 『根拠のない』 自信は どこからくるのか」 と。

 私は、37才で独立開業しました。当時、株式会社としての独立開業は (旧 商法のもとで、最低資本金制度などの制約があって) 生易しいことではなかった。寧ろ、独立開業は、社会のなかで敷かれた レール (有名校を卒業して、有名企業に入って、定年まで勤めること) から逸れた冒険だと見なされていた時代です。そして、その レール から いったん外れてしまうと、なかなか、元には戻れない [ 『敗者復活はない』 と思われていた時代です ]。そういう社会通念のなかで、私は、長男が生まれる 1ヶ月ほど前に、退社して独立しました。そういう社会通念のなかで、「俺はやってみせる、俺ならできる」 というような自信など私にはなかった。そうかと言って、前途に不安を感じていたわけでもない。

 私には、自ら、独立開業しようという意志はなかった。当時、私の秘書と或る client が独立開業を私に勧めたのです。秘書と client は、互いに相談して私に独立開業を勧めたのではなくて、それぞれ べつべつの理由 (事情) で私を説得したのです。私はと言えば、「俺は能力がある (他人に比べて仕事ができる)」 と自惚れていましたが、独立してやっていくほどの力量がないと思っていたので、最初は独立開業の勧めを聞き流していました。その client (の取締役と課長) は次のように私を説得していました──「もう 1年間、契約をしたい。ただし、契約の条件は今の会社を辞めること。その 1年間の収入で会社の基礎を造りなさい」 と。

 それでも、私は (独立開業に向かって) 動かなかった。というのは、私は、当時、私が勤めていた会社の社長に破格待遇で庇護してもらっていたので──私は、当時、スタッフ (平社員の システム・エンジニア) だったけれど、社長室での私の仕事所は上司の社長室長よりも広い スペース を与えられて [ 冷蔵庫、応接 セット も具えられていて ] 秘書を付けてもらって、会社には週に 2日か 3日しか出社しなかった [ ただし、自宅で仕事をしていました、念のためにw ]。今では在宅勤務も珍しいことではないですが、30年も以前に、私は すでに在宅勤務をしていました [ 自分の判断でw、管理部は怒り心頭でしたが ]。

 独立開業した最終決断の理由は、ここでは述べませんが、私はついに独立開業しました。カミサン──彼女は出産間近でした──には、独立開業に至るまでの事情は話していなかった。そして、出産の 1ヶ月ほど前に いきなり、「俺は会社を辞める」 と伝えました。「そうですか」 と彼女は言って、それ以上のことは言わなかった。独立開業してやっていく自信はなかったけれど、不安もなかった理由は、独立開業を勧めた client が向こう一年間の仕事を保証してくれていたからです。独立開業してから顧客を探すのは、無鉄砲です。当時 独立開業が普通のことではなかったけれど、社会が次第に変わってきて、今では独立開業が特殊な形態 (無謀な冒険) ではない時代になってきました。

 私の性質からして、一つの会社で勤め通すということは難しいのは わかっていましたが、そして、できれば一人で仕事をしたいと思ってはいましたが、独立開業してやっていけるほどの自信は私には全然なかった。実際、当時、独立開業しても 2、3年で潰れるだろうと思っていました。というのは、私の当時の仕事である データベース 設計は、ハードウェア を買えば ハードウェア の付録として無償で付いてくるのが商慣習だったので。その仕事を有償で (しかも、当時、1日 50万円で) どこの馬の骨ともわからない個人の コンサルタント がやれるわけがないと思っていました [ 当時、ハードウェア 製造では世界 No.1 だった IBM 社が エンジニア の サポート を有償化したのは、私が独立した数年後ですから、私の独立開業が いかに無謀だったかがわかるでしょうw ]。今年で独立開業して 27年目です。会社は、設立するのは簡単ですが、継続するのが難しい──特に、技術革新の烈しい コンピュータ業界 では。当然、27年のあいだには、山あり谷ありでした。会社が危くなったときに、友人たち・知人たちの多くに助けてもらいました (まだ、そのときの恩返しはできていない [ 苦笑 ])。

 私が独立開業した頃に コンピュータ業界では データ 設計が流行って、その流れに乗った私の会社は、「売れっ子」 になって繁盛しました。当時 私が持っていた技術は欧米で流行っていた技術でしたが、日本では 「先進的な」 技術だったので、社会の流行に乗って 「売れっ子」 になった。しかし、私自身は 「売れっ子」 になったにもかかわらず、虚しさを感じていました。そして、その虚しさは、私が欧米の技術を猿真似していることから生じていた。

 「売れっ子」 になって いい気になって金銭を稼いでも、流行がすぎれば、私は捨てられる──このままでは私は一時 (いっとき) の単なる猿真似の消費財である、という危機感を私は抱いていました。否、正確にいえば、危機感ではなくて、自尊心 (自意識) のつよい私は、他人の技術を猿真似していることを、そして猿真似で金銭を稼いでいることを良しとしなかった。

 その虚しさを抱いたまま仕事を続けていくのが嫌だったので、会社設立後 4年目に進路を変えました──「私自身の力で私独自の技術を作りたい」 と。私の願望を秘書に伝えたら、秘書は 「マサミ さんの納得がいくようにやってください」 と言ったので、以後 私は (数学・哲学を学習して) 独自の モデル 技術 (事業分析・データベース 設計のための モデル 技術) を作ることに専念しました。数学・哲学の学習のために時間を割くので、当然、仕事を抑えざるを得なかった。会社の収入は急降下しました。そして、私は貧乏になったけれど、いささかも後悔していない。この 24年のあいだ、誰からも制約束縛されることなく、独力で常に考えること、そして (昨日の自分に比べて) 自分の技術を少しでも前進させることを心掛ける日々を送ってきたから。自分自身の思考力との戦いの日々でした。

 私が 「私独自の」 モデル 技術を作りたいと思い上がってできたのが モデル TM (T字形 ER法の進化形) です。しかし、「私独自の」 技術を作ると慢気満々だった割には、モデル 技術として一応の体裁を持った TM は、数学・哲学では基本中の基本の技術を集めて整えたにすぎない (苦笑)。24年のあいだ、一心に作った結末が その程度のものだった。しかし、いっぽうで、私は TM を作ったことで或る程度の自信を持ったのは確かです。もし、TM を作らなかったら、私は、自らの仕事に自信を持てない (それでいて、他人に比べて才識があるという根拠のない自惚れを持った)・神経質な・独りでいることが好きな つきあい 難い、鼻持ちならない ヤツ になっていたでしょう。

 私は、この 24年間、TM と共に、成功と失敗をくり返して成長してきたと言ってもいいでしょう。小林秀雄氏の言うように、「そしてこの自信を得るのにはどんなに傑 (すぐ) れた人物でも相当の時間を要するのだ、成熟する事を要するのだ」。私は自分自身が 「傑れた人物」 とは思っていないけれど、年配の人たちのなかの多くは、「自信を得るには相当の時間を要するのだ、成熟する事を要するのだ」 ということを実感しているのではないかしら。一時 (いっとき) の着想などは自信にもならない──若い人は、着想を以て才能があると勘違いする傾向があるけれども [ 私も若い頃にはそう思っていましたが ]──、その着想を ちゃんとした形にするためには、思いの外、時間 (そして、忍耐) を要するというのが齢 64 になった私の実感です。

 
 (2017年11月15日)


  この ウィンドウ を閉じる