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The Pharisees went off and made a plan to trap Jesus with questions.
(Matthew 22-15)

 



 小林秀雄氏は、「ドストエフスキイ の時代感覚」 の中で次の文を綴っています。

     ドストエフスキイ は矛盾のなかにじっと坐って円熟して行った
    人であり、トルストイ は合理的と信ずる道を果てまで歩かねば
    気の済まなかった人だ。

 この二人の対比は、私の専門分野で云うなら、ウィトゲンシュタイン と ゲーデル の対比にも当てはまる気がします。ウィトゲンシュタイン は 「現代の ソクラテス」 と云われ、ゲーデル は 「現代の アリストテレス」 とも云われています──誰が そういう喩えを言い出したのか わからないけれど [ 私は調べていないけれど ]、絶妙な喩えだと私は思っています。おそらく、この二つの道のいずれも一事を成すために不可欠な道なのでしょうね。私自身は、どちらの道を歩んできたか、、、ウィトゲンシュタイン に憧れながらも、私の職業柄 (モデル 論を専門にしているシステム・エンジニア)、ゲーデル の道を歩いてきました。否、正確に言えば、時々、ウィトゲンシュタイン の道に分け入って迷子になったりしています。ウィトゲンシュタイン の道に入った理由は、私が青年の頃から文学・哲学に憧れていたからでしょうね。決して交わることのない二つの道のあいだで私は迷子になっている (苦笑)。ウィトゲンシュタイン と ゲーデル を研究対象にしている専門家 (哲学者) なら、迷子にならないような地図を持っているのでしょうが、モデル 論を専門にしてはいても、二人を研究対象にしていない システム・エンジニア は、(勿論、先人 (哲学者) たちの案内 (guidebook) を参考にしていますが) 二つの高峰の樹海のなかで迷子になるのは致しかたないでしょう [ 言い訳か (苦笑)]。

 私は、ドストエフスキイ に惹かれているが トルストイ に惹かれたことはない [ 勿論、トルストイ の小説や評論は若い頃から読んでいますが、彼の作品のなかで惹かれたのは 「クロイツェル・ソナタ」 くらいです ]。私の気質として、「合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気の済まなかった」 人物を好きになれない。私は、こじらせ 系の傾向を持つ文学青年だった。そういう私が システム・エンジニア として ゲーデル を読んでいるのだから、惑わないほうが奇怪しい。そうかといって、「矛盾のなかにじっと坐って円熟して行った」 訳でもない、、、天才たちの猿真似して転 (こ) けた、それが私の正直な様かな。

 
 (2017年 9月15日)


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