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As soon as the spirit saw Jesus, it threw the body into a fit,
(Mark 9-20)

 



 小林秀雄氏は、「若き文学者の教養」 の中で次の文を綴っています。

    今日の若い作家達の教養の貧弱さは覆うべからざるものだ。然し
    彼等が教養の摂取を怠っている訳でもあるまい。彼等の教養には、
    教養を円熟させる何物かが欠けているのである。例えば、一時代
    前の作家が持っていた古典的趣味という様なものは、作家の教養
    を成熟させる或る何物かであった。以て教養を蓄積し、以て蓄積
    された教養の開花を期するという、言わば教養の根を、今日の若い
    作家達は失って了ったのである。

 小林秀雄氏の言っていることは、私自身が接してきた作品──文学の特色を語るには作品の数は多くないけれど──を読んできて、そうだと実感しています。しかし、これは作家だけが非難されるべきであろうか? 読者のほうにも 「教養を毛嫌いする」 風潮はないか (あるいは、教養を小馬鹿にして、作家の教養を みくびってから作品を論っていないか)? 源氏物語なんぞ寝っ転がって読み通すことができるのが教養だとしたら、読者のほうの教養など高がしれている (私も御多分にもれず)。

 私が ここで論じてみたいのは、「作家の教養を成熟させる或る何物か」(教養の根) という点です。おそらく──否、きっと──作家自身も これが どういうものであるのかを指示 [ 直示 ] することはできないでしょうね。でも、それは 「在る」。しかし、脳内の神経 パルス を分析しても現れてはこないでしょうね。そういう モノ は在るけれど直示できないということが悩ましいし、教養が紛糾する原因でしょうね。

 実証ということが重んぜられ、(事実を) 分析する技術を吟味しなくてはいけないことに対して、システム・エンジニア たる私は もとより賛同するけれど、人文科学を論じる人たちが、ただ 技術の善し悪し (あるいは、精粗) ばかりを吟味して、作品を 「科学的に」 分析して個々の分析結果を統合しても、ひとつの有機体として全体を説明できないことくらい わかろうはずのものを。したがって、作品を味わうには、技術よりは、作品に直入するしかないでしょう。作品が立派であれば、それ相応の品格 (教養) を感じるはずです──たとえ、その作品が猥雑な題材を扱っているとしても [ たとえば、「はこやのひめごと」 「阿奈遠可志」]。

 思想とか教養とかが毛嫌いされることは私もわからない訳ではないけれど、それらは取って付けた装飾品ではなくて、長い修養のなかで 体得して、人柄として現れるのではないか。

 「教養の根」 を 今日の若い作家達は どうして失って了ったのか、、、私は、その原因を論ずるほどの教養はないけれど、彼等の作品が──勿論、私が読んだ数少ない現代作家に限っていますが──面白いけれど、それだけで終わってしまう [ はっきり言えば、二度と つきあう気になれない ]。日本の美学を継承してきた 「谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫」 の系統であれ、西洋的知性を基軸とした 「大岡昇平・安部公房」 の系統であれ──私自身は、川端康成・三島由紀夫の系統を好んでいますが──、彼等に迫まるような若い作家が どうして出てこないのか、、、。三島由紀夫氏は、川端康成氏が ノーベル 賞を受賞した翌日の テレビ 対談で言っていましたが、「文学が成立するのが 難しい時代になった」 と。私のような文学愛好家が作家の苦労も知らないで勝手なことを言っているといわれれば、それまでですが、文学愛好家に こういうことを言わせる現代文学の貧困 (教養が バックホーン [ firmness of character ] になっていないこと) は、とりもなおさず 作家に魅力がないということではないか。魅力のあるなしは、我々が、普段、人との つきあい のなかで体感していることではないか。

 
 (2017年 5月 1日)


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