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Jesus grew both in body and in wisdom, gaining favor with God and people. (Luke 2-52)

 



 小林秀雄氏は、「鉄斎U」 の中で次の文を綴っています。

     日本人は、何と遠い昔から富士を愛して来たかという感慨なし
    に、恐らく鉄斎は、富士山という自然に対する事が出来なかった
    のである。彼は、この態度を率直に表現した。賛嘆の長い歴史を
    を吸って生きている、この不思議な生き物に到る前人未踏の道を、
    彼は発見した様に思われる。自然と人間とが応和する喜びである。
    この思想は古い。嘗て宋の優れた画人等の心で、この思想は既
    に成熟し切っていた。鉄斎は、独特な手法で、これを再生させた。
    彼は、生涯この喜びを追い、喜びは彼の欲するままに深まった様
    である。悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、さよ
    うなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた。

 この引用文を読んで、私は北斎の 「富嶽三十六景」 を思い浮かべました。北斎の富士山について、亀井勝一郎氏は次のような所感を述べています──

     富士山ほどくりかえし描かれた山はない。あの三角形の
    単純なかたちは、たちまち倦 (あ) きられて俗化してしまう。
    そのとき、あらためて富士山の新しいすがたを発見するもの
    こそ一流の画家だ。たとえば北斎のような富士の眺めは、
    それ以前の誰も描かなかった。平凡にみえる自然のなかに、
    千変万化の非凡なすがたを発見するのが芸術である。

 小林秀雄氏も亀井勝一郎氏も同じような意見を述べていますね──すなわち、多くの人々が長い年月のあいだ賛嘆してきて数え切れないくらい描かれてきた [ だから、もう描きだすような新しい所がないと思われるほどに俗化した ] 富士山のなかに 鉄斎も北斎も 「それ以前の誰も描かなかった」 風姿を観て彼ら独自の筆致で描き 新たな富士山が現出した。亀井勝一郎氏の言う 「平凡にみえる自然のなかに、千変万化の非凡なすがたを発見するのが芸術である」 ということを芸術の シロート (絵画の技術を一寸もわからない私のような シロート) でも納得できます。芸術に限らず科学の分野でも、天才というのは我々凡人が当たり前の事として見過ごすような事態に対して驚愕し、その事態がそうあることの しくみ を探究する、そのことを我々凡人は 「発見」 というふうに云っているのでしょう。私が敬愛する哲学者 ウィトゲンシュタイン 氏は次のように言ったとか──「世界がこのようにあることが驚異なのである」 と (この文を彼の著作 [ 全集 ] のなかのどこで綴っているのかを調べるのが面倒くさいので──彼の全集は拙宅の隣に借りている アパート に置いてあって、その アパート に出向くのが面倒くさいので──私の記憶が曖昧なままに彼の ことば を とりあえず綴っておきます、悪しからず)。

 人々が当たり前のこととしてやりすごしている事になかに新たな視点を以て新たな形相を見出すことは 勿論 労苦です、しかも その労苦を先学の天才たちが かつて 成してきて すでに いくつもの形が提示されて成熟し切っている場合には尚更でしょう。しかし、それにもかかわらず、語り尽くされたと思われる物事のなかに新たな形を (いまだ その形が はっきりしていなくても) 朧気ながら感じたときの喜びは私のような程度の凡人でも想像できる。そして、感性が捉えた (朧気だけれど) 確たる something を確実な形にしていくには更なる労苦を負うことになる──見えないものを形にする、それが制作の技術でしょう、そして最後の形になるまで制作では気を抜けない、どれほど一流の技術を以てして制作に取り組んでも その絵に加えた最後の一筆で絵が統一感を失うこともある。取り組んだ制作が途中で失敗して、また最初からやり直さなければならないこともある。それでも、その対象のなかに朧気ながらも確たる something を感じているからには、他の新たな対象に目移りなどしないで、対象への接近法を少し変えてみる──そういうことの繰り返しが制作には付きまとう。だから、「悲しみも苦しみも、彼の生活を見舞った筈であるが、さようなものは画材とするに足りぬ、と彼は固く信じていた」。制作者たる彼が信じているのは、画材のあるがままの自然のすがたと それを作品として完成するための彼の感性・制作技術です。作品の制作にたずさわったことのある人であれば、このことは──鉄斎や北斎ほどの天才でないにしても──納得できるでしょう。私も モデル TM を作る過程で嫌というほど このことを味わってきました。しかし、哀しいかな、私のような程度の凡才が制作することのできた作品と云えるのは、たった一つしかない、、、それは実に凡才の悲哀です (泣)。

 
 (2021年 7月15日)


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