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you believe in him, although you do not now see him. (1 Peter 1-8)

 



 小林秀雄氏は、「マキアヴェリ について」 の中で次の文を綴っています。

     理解するという事と信ずるという事は、人間が別々の
    言葉を幾時の間にか必要としていたその事が語っている
    通り、全く性質の違った心の働きである。人間は、万人流
    にいくらでも理解するが、自己流にしか決して信じない。

 「理解する」 とは、物事の道理・筋道 (すなわち意味・内容) を正しくわかること、そして 他人の気持ちや立場を察すること (「デジタル 大辞泉」)。「信じる」 とは、信用する・信頼する (ときに、信仰する・帰依する) こと。これらの辞書的な意味を前提にすれば、「理解する」 ことは 「信じる」 ことに先行するということですね──勿論、理解しても信じるに至らない事態も起こる。さらに、理解しないで信じることもあるけれど、それを我々は 「盲信」 (訳もわからず、ただひたすらに信じること) として蔑視するでしょうね。

 私は、心理学者でもないし哲学者でもないので、「理解」 の性質 (特性) を学問的に述べることができないけれど、一人の社会人として [ 市井の民として ] 「常識」 を頼りにして考えてみれば、「理解する」 ことの媒体となる言語 (word-language) には次の 2つがあるでしょう──

 (1) 形式言語 (論理規則のみが統括する 「論理式」)
 (2) 自然言語 (民族に固有の、日常生活で使われている言語)

 この 2つの言語について 「意味」 を哲学的課題として考察した人物が ウィトゲンシュタイン 氏です──彼の思索は前期と後期では一変する [ 一変しているようにみえる ] のですが、根底では一貫していて、言語が表す 「意味」 として、前期では論理空間のなかで 「意味の対象説」 を前提にして 「論理と思想」 を主題にして考えて、後期では 「意味の使用説」 を前提にして 「言語と常識」 を主題にしていると私は判断しています。

 さて、論理規則を否定する [ 信じない ] ことは誰もできないでしょう──論理の前提 [ 公理 ] を選ぶ自由さは与えられていますが、どんな天才でも論理規則を破る (構文論上、無矛盾性を無視する) ことはできない。論理の前提を選ぶ自由さは、数学においても 「流派」 を生んでいるようです──いわゆる 「論理主義」「形式主義」 および 「直観主義」。すなわち、形式言語では、「理論」(「論理」 に従った無矛盾な体系) を作る人たちは 「万人流にいくらでも理解するが、自己流にしか決して信じない」。

 ひとつの記号 (単語、項) が ひとつの意味しか もたないという基本的な前提に立って 「構造 (『関係』)」 を立てる形式言語においてすら 「理解する」 ことと 「信じる」 ことは性質の違うことなので、ひとつの単語が多義になっている自然言語においては、文の意味を 「理解する」 ことは とても難しい。その原因は、それぞれの単語について、話し手 (書き手) も聞き手 (読み手) も めいめいの印象を抱いているからです。その印象は、言語活動に関与している人たちの過去すなわち生活様式、稼得してきた知識、体験が生み出す。したがって、話し手 (書き手) の言いたいこと [ 意味 ] が正確に伝わるということは奇蹟に近い──それぞれの人たちが同じ生活様式、知識、体験を共有していなければ 「意味」 の正確な伝達はできないでしょう。しかし、それぞれの人は、生い立ち (生活様式、稼得してきた知識、体験)のなかで形成してきた めいめいの立場 [ 視点、ものの見かた ] を持っている。

 我々が自然言語を使って 「意味」 を伝達するとき、我々は 「相手の総体」(文脈のなかで述べられている 「意味」 のほかに、発話状況 (発話された契機、顔の表情、身体の動作など) を瞬時に・大まかに捉えて、或る印象を抱いている。「君 (きみ) の言うことは理解するが、共感できない」 という言いかたは、「君の言っていることは一理あるが、それは君の見かたであって、私は他の見かたをしている (私のほうでも正当な論理を持っている)」(That's your logic, I have my own logic.) ということと同じ意味でしょうね。私は ここで 「独我論」 を述べるつもりなどないし、それを述べるほどの哲学的知識もない──ただ、ウィトゲンシュタイン 氏の次の ことば [ 彼の前期の考え ] を引用しておきます、「私の言語の限界が私の世界の限界である」。逆説的に響くかもしれないけれど、「相手の総体」(相手の大まかな全体像) から感じ取った印象が きっかけとなって相手に信を置くようになって (あるいは、好奇心を抱いて)、その後 (あと) で相手を丁寧に知ることがはじまるのではないか。そして、そうやって我々は、自分の世界を拡げてゆくのではないか。「論理」 が厳正に適用される 「理論」 の世界を除けば、我々は自分流に対象を把握して自分流に信じているというのが実態ではないか

 
 (2019年 9月15日)


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