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even though in the past I spoke evil of him and perscuted and insulted him
(1 Timothy 1-13)

 



 小林秀雄氏は、「現代の学生層」 の中で次の文を綴っています。

    愛読書を持つという事が大変困難になって来ています。様々な傾向
    の本が周囲にあんまり多すぎる。愛読書を持っていて、これを溺読
    するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、広く浅く読書して
    得られないものが、深く狭い読書から得られるというのが、通則
    なのであります。

 「反文芸的断章」 では小林秀雄氏の文を度々引用してそれを材料にして私の意見を述べていますが、今回引用する文は小林秀雄氏の独自の視点・文体が出ている訳でもないのですが──小林氏が文中 「通則」 と述べているように、誰もが感じている事ですが──、私がこの文を引用した理由は、Internet が普及して WWW 上の膨大な「情報」 に簡単に アクセス できる時代になって、我々は 「愛読書」 を持つ事を忘れがちではないかと思ったからです。小林秀雄氏が生きていた時代には Internet がない時代ですが、小林氏の ことば を借りれば、その時代でも 「愛読書を持つという事が大変困難になって」 いた様ですね。勿論、皆が皆、読書に勤 (いそ) しんで愛読書を持たなければならないなどと私は思ってもいないし──小林氏も私と同じ意見だったでしょうし──、読書が取り立てて高尚な趣味であるとも思っていない。では、どうして我々は読書をするのか。

 読書をする理由のなかで先ず浮かぶのは、「知識を得るため」 という事でしょう。しかし、「知識を得るため」 ならば、Internet を使ったほうが豊富な知識を得られるでしょうね──尤も、専門分野の研究では、特殊な専門書が Internet 上に アップロード されていないので読書するしかないのですが、日常生活のなかで知りたいと思う知識は、たいがい、Internet を使えば用が足りる。私もそういう用途では Internet を重宝しています。その他にも、仕事に疲れた時に気張らしに読書するという事もあるでしょうが、私自身は気晴らしには、Internet を surf しています。「知識を得る」 とか 「気晴らし」 という事では、読書は Internet に勝っているとは私には思えない。

 読書が Internet とは違う性質があるとすれば、それは 「或る人物の 『思想』 と向かいあう」 という事ではないかしら。その事を、小林秀雄氏の ことば を借りれば、「これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、広く浅く読書して得られないものが、深く狭い読書から得られる」 のでしょう──つまり、天才の 「思想」 から学ぶという事です。天才がその一生を費やして考え抜いた思想は、我々凡人には思い浮かばないものであって、その天才の 「思想」 から人生を学ぶという事でしょうね。そうするには、その天才の 「思想」 を熟読するしかない (もし全集があれば、全集を熟読するしかない)。「思想」 というものは実生活から生まれるのですが、そうやって生まれた思想はやがて実生活から昇華されて、その思想家の独自の ものの見かた・考えかた として現れる。それらを伝える天才の文体を逐一読みながら、我々は自らの生活のなかでその 「思想」 を吟味する。天才の 「思想」 は、実生活を離れた 「高尚な」 講壇じゃない──それを学んだ [ その人の消化できた分に応じて ] その人の考えかたとなって生活のなかで具体的に現れるでしょう、離れようと思っても離れられないのが実生活なのだから。

 
 (2015年 6月 4日)


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