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everything depends, not on what we humans want or do, but only on God's mercy. (Romans 9-16)

 



 小林秀雄氏は、「清君の貼紙絵」 の中で次の文を綴っています。

     子供が大人の考えている程子供でないのは、大人が子供
    の考えている程大人でないのと同様である。子供は全力を
    挙げて大人になろうと努力しているので、その努力は大人
    が屡々 (しばしば) 洩す子供に還り度いという感想の様な
    生易しいものではあるまい。全力を挙げて大人に成ろうと
    するが、仲々巧くはいかない。その巧く行かない点に、子供
    の特色を認められては子供は迷惑だろう。

 「清君の貼紙絵」 は山下清 氏について論じていますが、私は本 エッセー で 自らの青春時代を顧みて 「大人と子供」 について考えてみます。

 「子供が大人の考えている程子供でないのは、大人が子供の考えている程大人でないのと同様である」──私は自分の子ども時代・青年時代 (昭和 30年から昭和 50年 [ 1955年から 1980年くらい]、私が 2歳から 27歳) までの記録動画を Youtube で 最近 観ていますが、僅か 20年の間で社会の変化が著しかったことを改めて思い起こして、その社会変化のなかで、「子供が大人びて 大人が子供じみてきた」 ことを痛感しています。

 私は子ども時代 (小学六年生まで) を海辺の村 (半農半漁の寒村) で育ちました。テレビ は私が生まれた年 (昭和 28年 [ 1953年 ]) に登場して、当時 ようやく普及しはじめた頃でした。子どもたちの遊びといえば、当時、チャンバラ ごっこと めんこ・ビー玉・釘さし と、小学高学年になってからは野球が ほとんどを占めていました。すなわち、野外での遊びが子ども (男の子) の遊びの ほとんどを占めていて、大人との係わりあいも皆無でした──子どもは 「子どもの領分」 を持っていた。

 私の中学・高校時代は、富山市内に住んで、町 (地方都市) の生活を送っています。だいたい この年頃の関心事といえば、学習 (受験勉強) と異性でしょう。当時は、「デート」 という ことば はなかった──「男女交際」 と云っていました、「不純異性交際」 という ことば もあった。カレシ・カノジョ がいる生徒というのは珍しかった。私は中学時代には絵に描いたような いわゆる 「優等生」 でした。そして、親の期待どおりに県一番の進学校に入学しました──この頃から私の反抗期が始まった (笑)。進学校の雰囲気に なじめなかった私は、学校を欠席することが次第に増えました [ 後日、或る教師から聞いた話では、私の欠席日数は学年最多だったそうです (苦笑)]。高校三年生のとき、授業をさぼって友人たち (同級生二人) といっしょに ボーリング に興じていたら補導されました──私は 「武勇伝」 を語って いわゆる ワル だったと放言するつもりは 毛頭 ない、それほど学校が嫌いだったということ。私は、まともな高校教育を修めていないけれども、怠けていた訳ではなくて、家で読書をしていました。私が読んでいた書物は文学書です、文学に夢中になっていました。私が学校に行かないことを父は一言も怒らなかったのが ふしぎでした。

 文学に夢中になって、私のなかに 「大人 (大人の世界) に対する反感 (あるいは、侮蔑)」 が次第に大きくなっていった。当時の私は、多数の書物に囲まれた生活を憧れて、俗な世間ごとなど蔑視していました── 子どもは大人 (の社会習慣) を学んで、「子供は全力を挙げて大人になろうと努力している」 というのが普通の道であれば、当時の私は それを逸脱していたと言えるでしょう。私は文学から社会を学んだ、実際の社会を体験する以前に、書物から社会を知ったつもりになっていました──いわゆる 「文学青年」 と云われる人たちは そうではないか。文学が描く社会とか人間関係は確かに それらに潜んでいる凄惨な性質を描きだしてくれるが、その性質は社会の常態ではない──普通のことなど物語にはならない、そんなものを描いても多くの人たちが体験していることであって、わかりきった話を わざわざ読む人などいないでしょう。文学が描く尋常一様でない物語 (極限にまで敷衍した一つの実態) を 「文学青年」 は 「人間性の本質 (?)」 などというふうに感銘する、この時点で彼らの俗に対する蔑視がはじまる。私も青年期 (大学生の頃) には この罠に見事に陥りました。

 私の大学時代は、「学生運動」 が下火になっていたとはいえ、最後の燃えかすが消え入る前に血走って燃えていた時期でした──赤軍派の残虐な 「総括」 事件が起こったのは私が大学生の頃です。「学生運動」 は すでに一般学生の賛同を喪っていて、運動家だけの運動になっていました。私は、端 (はな) から 「ノンポリ」 でした。「学生運動」 が下火になってはいましたが、まだまだ 大学が ロックアウト されることが多かった。そういう状況のなかで私は下宿で ひたすら文学・哲学の書物を読んでいました。「マル 経 (マルクス 経済学)」 も全盛の頃でした──マルクス の 「資本論」 を通読した学生が どのくらいいたのかは疑問ですが、「マル 経」 を履修した学生は 「経済学批判」 くらいは読んでいました。私も 「マル 経」 を履修しましたが、社会主義に興味があった訳ではなくて、「近経 (近代経済学)」 が難しそうだったので、消去法で 「マル 経」 を選択したというだけのことです。マルクス主義文学を私は端から蔑視していました。

 当時 流行った歌 「いちご白書を もう一度」 の歌詞のなかに次の文があります──♪「就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないよと君に言い訳したね」。騒然とした学生生活のなかで、当時の学生は長髪が多かった──「学生運動」 には賛同しないけれど、「反戦 (ベトナム戦争に対する怒り)」 とか現体制や大人たちに対する反抗を示すために長髪にしていた学生は多かった [ 私も そうでした ]。穢れた大人社会に対して、学生時代に あれほど反抗していた学生たちが就職するときには大人社会を追従してしまう──そういう光景を間近に観て、私は一種奇妙な感を覚えました。私は と言えば、相も変わらず 「文学青年」 を抜けきっていなかった、否 益々 その傾向が強くなっていました。多くの学生たちが反抗を止めた時点で、私の反抗は始まった──私は就職することを選ばなかった、大学院に逃げ込んだ (当時、文系の大学院を出ても、企業では 「使いものにならん」 と陰口を言われていた時代です。現在でも そうかな?)。

 訳あって、修士で大学院を出て、一年間 無職をして、或る外資系会計事務所に就職しました。入社して一年ほどたった頃、或る企業から或る業務の コンピュータ 化の調査が依頼されました (私が調査を担当しました)。その調査では、数名の人月削減が可能との試算が出た──そして、その調査が従業員の 「首切り」 に使われました。丁寧な調査だったのですが後味が悪かった、「こういう仕事は やりたくない」 と──当時の上司に私は正直に私の気持ちを伝えたら、上司曰く 「なにを女学生みたいなことを言っているのだ」 と。上司の ことば は ビジネス において図星をついていますが、私の調査に協力してくれた人たちの内から数名の首を切ることに対して当時の私は遣る瀬なかった。同じような局面に今再び置かれたら、私は今も きっと 同じ気持ちになるでしょう。これを大人に成り切れないと言うのなら、そうなのでしょう。しかし、だからといって、私は子どもの 「純真な (無邪気な穢れない?)」 心を持っている訳でもない。

 「大人」 という ことば は多くの意味を持っています──良い意味で使われることもあれば、悪い意味で使われることもある。「大人」 の反対語が 過不足も無く 「子供」 という訳でもない。子どもというのは、大人の言うことを素直に受け入れて、大人の言いなり通りに作られる柔らかな粘土細工ではない。そして、子どもは自分を可愛がってくれる人たちや自分の好みにあう事を直感的に嗅ぎわける力が豊富です──それらの性質が顕著になる時期が (子ども時代を終えて 「自我」 が開花する) 青春時代でしょう。青春時代に顕著になった性向は (よほどの劇的な出来事を体験しない限り) 大人になって大きく変わることはないでしょうね。私は、高校生・大学生の頃に感じていた自身の性質が 66歳になろうとする今でも強く現れていることに愕然としています [ 日記を読み返せば、それが わかる ]。30歳を過ぎれば、それまでに形成された性質が そうそう変わるものではない。それを社会への適応ができない子ども扱いされては身も蓋もない。世事に無関心な私の性質が時に 「オマエ には悩みがないだろう」 という当て付けを言われることがあったけれど [ 実際、面前で言われましたが ]、冗談言っちゃいけない、そういう性質が社会のなかで呑気でいられる訳がない、小林秀雄氏は次の文を綴っています (「おふえりや遺文」)──

    (略) 無邪気が、どんなに悲しいものだか御存じなければ、
    無邪気だ、とおっしゃったって詮ない事だ。いじめられる人
    が、どんなに沢山のものを見ているのか、おわかりなければ、
    それはまた別の事です。無邪気な頭だって、込み入ってい
    ます。大変な入り組み様をしています。(略)

 
 (2019年 5月15日)


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