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He died for all, so that those who live should no longer live for themselves,...
(2 Corinthians 5-15)

 



 小林秀雄氏は、「モオツァルト」 の中で次の文を綴っています。

     モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地
    を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、
    それがまさしく目的を貫いたという事であった。

 亀井勝一郎氏の著作のどれかで私は次の文を読んだことを記憶している──

    歩いてきた行程が そのまま道になる。

 この文は、ただし彼の文の正確な引用ではなくて、私の記憶にのこっている 「意味」 をあらわしただけなので、悪しからず。モオツァルト のような天才は、じぶんの精神 (知・情・意) のなかで起こる動き [ 生滅流転 ] を信じ感応し、それを適確な技術を使って忠実に再造しているだけではないか──私のような程度の凡才には天才の精神を推し量ることはできないけれど、天才と云えども彼らの脳や目や耳や そのほかの身体構造は われわれと同じなので、身体のそれらの作用そのものは われわれと違いはないでしょう。彼らが天才と云われるゆえんは、その作用の振幅がわれわれに比べて広いこと、そして その動きを再造する技術が並外れているからでしょうね。彼ら天才は われわれと異なる世界に住んでいるのではないのだから、われわれが体験したり見聞したり想像したのと同じ事象を体験・見聞・想像しているし、それゆえに われわれ凡人は彼らの作品に感応できるのでしょう。ただ、われわれが そういう体験・見聞・想像 (に感応した精神の動き) などを上っ面だけを撫でて通り過ぎるのに比べて、彼ら天才は われわれに比べて それら事象を丁寧に観て再造する技術を身につけているということでしょうね。芥川龍之介氏は、天才について次の文を綴っています (「侏儒の言葉」)──

    天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。同時代は
    常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里
    の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。
    後代は又その為に天才の前に香を焚いている。

 私が今まで読んできた 「天才について」 述べた文のなかで、私は芥川龍之介氏の この文を一番に気に入っています。われわれ凡人が天才に対してみせる態度を的確にあらわした文ですね。そして、作品を創造することについて、天才が自ら述べた次の ことば も (天才が思っていることを われわれ凡人にも わかるので) 私は座右の銘にしています──

    辛抱強くあれ! 霊感をあてにするな、そんなものはないのだ。
    芸術家の資格とは、知恵であり、誠実さであり、意力である。
    諸君の仕事を、あたかも実直な職人のように果たしたまえ。
    (ロダン [ 彫刻家 ] の ことば)

 彼ら天才は じぶんの精神を信じ、そして それに忠実に耳を傾けて、じぶんにとって真実であると信じているものを再造したので、「目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」。ベートーヴェン は、次のような ことば を言ったとか──「人の心から出たものを人の心に返す」。そして、人の心から出たものを人の心に返すために、天才は必ず再造する至高の技術を身につけている。技術 (しかも、最良の技術) をもたない天才など存しない。われわれのような程度の凡人がもつ並みの技術じゃ だめなんだよ。

 
 (2021年 1月15日)


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