× 閉じる

Be on watch, be alert, for you do not know when the time will come. (Mark 13-33)

 



 小林秀雄氏は、「環境」 の中で次の文を綴っています。

     美は芸術を芸術たらしめる塩である。美のない処に
    芸術はない。美は芸術に於ける真である。そしてそれは
    芸術作品の成立条件に関するどのような精密な分析に
    よっても得られるものではなく、作品に対している僕等
    が一と目で感得する或るものである。だからそういう
    美は、或る一つの作品の比類のない現実性を離れて
    考えられぬものであり、従って、美学者の考えるような、
    個々の作品の美しさが演繹出来るような一般的な美の
    観念でもない。

 小林秀雄氏は彼の他の著作 (「当麻」) のなかで次の文を綴っています──「美しい花がある。『花』 の美しさという様なものはない」。

 前々回 (2019年 6月 1日付け)の 「反文芸的断章」 で引用しましたが、「処世家の理論」 のなかで次の文を綴っています──「 正しいが故に美しい学問のなかとか、美しいが故に正しい芸術 」。そして、「史観」 の陥りやすい罠を非難して、彼は次のように言っています──「史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様なことになるのである」 (「歴史と文学」)。

 文芸批評の科学性などという言い古された論点を文芸批評家でもない私が本 エッセー で したり顔で述べるつもりは更々ないし、それを述べるには高が 「文学青年」 にすぎない私の才量を超えています──ただ、生活するにあたって生活に関する 「法則 (公式)」 などは存在しないことを私は確信している。おそらく、大多数の人々は そう思っているのではないか。しかし、我々がそういうふうに考えて生活していても、他人が我々に対してもつ情報は、互いに接見している時に相手の全体像からうける印象のみでしょう。たとえ人物・物事の 「事実」 に接していても、我々はそれらに対する印象を手掛かりにして それらの性質を類推し判断して結論として レッテル を貼っている [ 評価を下している ]。故に、自分が思い考えていることを間違いなく伝達するのは、どれほど正確な記述 (伝達) を図っても──数学的な論理式を除けば──奇跡でしょうね。事実的な存在は一つでも、それに対する様相 (「解釈」) は観る人によって様々 (「一水四見」) です。我々は、そうやって生活している (正確にいえば、そうやって生活せざるを獲ない)。

 「美は、或る一つの作品の比類のない現実性を離れて考えられぬ」──確かに そうでしょう、そして一つの作品に対して二人が美しいと感じているとしても、二人が美しいと感じて それぞれ 心に抱いているものは きっと 一致しないでしょうね。そして、「説明できないが存在する、あるいは存在するが説明できない」 曖昧な何物かを 「美」 と互いに呼んで共有しているのでしょう。しかしながら、「個々の作品の美しさが演繹出来るような一般的な美の観念でもない」、同床異夢の状態なのでしょうね。

 そういうふうに思いを巡らしていたら、私は横光利一氏の小説 「機械」 を思い出しました。そして、「反文芸的断章」 で かつて 綴ったのですが、不気味な機械を想像しました──その機械は 「分類語彙表」 を内蔵していて、なんらかの対象 (それが思想であってもいいし、事態であってもいいし、その機械が捕捉した対象) を読み込んで [ input にして ]、その対象を整理する語彙を 「分類語彙表」 の中から選んできて、その対象に分類語 (ラベル) を刻印して output する、という有様を想像しました。しかも、CPU は高速に演算をこなす。機械は、みずからの動作を疑わない。街を行き来する人々を眺めて それらの人々が人間の形をした精巧な機械であったならば、あるいは自分が会話している相手が人間の格好をした精緻な機械であったならば、、、そして私も機械であると想像して私は 時々 ゾッとすることがある。機械どうしのあいだでは、(動作 プログラム [ アルゴリズム ] が同じならば) 伝達の間違いは起こらないでしょう、一語違わぬ伝達が成されるでしょう──果たして、機械は ストアー (store) した データ を使って精神 [ 知・情・意 ] を生成する学習を自ら行うことができるのか、、、一介の システム・エンジニア (私) が そんなことを考えても空想に終わるのが オチ であって、そういう論説は AI の研究家に任せるとしましょう (少なくとも私の存命中には実現できそうもないので)。

 演繹できる前提とは、部分集合を作る対象 (データ) の性質が均質でなければならない──すなわち、個々の対象が様々な性質をもっていても、集合を形成する判断となる規準は一つである。そこでは、或る性質を包摂するか排除するかの規準 [ 判断 ] が立てられる。そして、その規準は、1つの 「意味」 しかもっていないことが要請される。つまり、一つの記号は一つの意味しかもたない [ 「1 対 1」 ということ ]、という前提に立っている。「美」 とか 「善」 というような抽象語は、そもそも そういう前提を立てられない。誰かが 「美」 という概念から一つの作品の美しさを仮に演繹したとしても、「そういう考えかたもあるのかな (私は その作品について あなたとは違う美しさを感じている)」 というふうに私は言うでしょうね。「エトス」 だ 「パトス」 だなどと言い古されてきたことを援用して これまた したり顔で説法するつもりも私には更々ない。せわしない生活のなかで──即断・速断を余儀なくされている [ せざるを得ない ] 生活のなかで──私は せめて 自分が美しい・正しいと感じた対象に直に向きあって、対象を丁寧に味わいたい。

 
 (2019年 7月15日)


  × 閉じる