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Whoever is faithful in small matters will be faithful in large one; (Luke 16-10)

 



 小林秀雄氏は、「疑惑 T」 の中で次の文を綴っています。

     独創的に書こう、個性的に考えよう、などといくら努力し
    ても、独創的な文学や個性的な思想が出来上るものではない。
    あらゆる場合に自己に忠実だった人が、結果として独創的な
    仕事をしたまでである。そういう意味での自己というものは、
    心理学が説明出来る様なものでもなし、倫理学が教えられる
    様なものでもあるまい。ましてや自己反省という様な空想的な
    仕事で達せられる様なものではない。それは、実際の物事に
    ぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた
    知識の如きは、肝腎要の役には立たぬと痛感し、独力の工夫
    によって自分の力を試す、そういう経験を重ねて着々と得られ
    るものに他ならない。

 まったくの同感です。これが 「身証」 ということでしょう。酒の席で、色々な事について──たとえば、人物批評、芸術論、政策論など──放言するのは愉快ですが、所詮 酒の席での気晴らしでしょう [ 私は、この気晴らしが好きです ]。しかし、仕事では、酒の席と同じ態度で臨む人はいないでしょう。「工夫」 というのは、現実に ぶつかってはじめて考えられるのであって、「正論」 を述べるだけでは得られない──逆に、「正論」 のみを語っている人を私は信用しない。「正論」 を述べるだけでは、(論理的に無矛盾であっても、) 不完全な結果しか得られないでしょう。なぜなら、「正論」 を適用する際の外部条件 (環境条件) を無視しているから。「正論」 を実地に適用するには 「工夫」 が要る。そして、「工夫」 の しかた に個性が現れる。

 「個性」 という ことば は我々を大いに惑わす ことば ですね──特に、「個性」 が 「独創的」 という意味で使われる場合には。しかし、独創は、いかなる場合でも、不正確の口実に使われてはいけない。ゲーデル 氏 (数学者) や ウィトゲンシュタイン 氏 (哲学者) のような人物は、彼らの言説を真似ているのみでは決して生まれないでしょう。我々は、彼らの言説を没個性的に学んで、学んだのちに自らの生活のなかで独力で 「工夫」 してはじめて我々の個性が生まれるでしょう。個性は、個性的になろうとする意思から生まれるものではないと思う。独創とは、誰をも模倣しないことではなくて、誰もがそのまま模倣できないことではないか──模倣するには、「工夫」 が必ず要る。

 
 (2018年 9月15日)


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