思想の花びら 2018年 5月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  野心的な思想に対立するものは、自分のしていることだけを観察する労働者の思想だ。ここには正確な方法、今日の物理学を支配し、ある意味では手も足も出ないようにしているあの正確な方法というものが現われている。問題となるのはただ物だけだ、というところからそういうことになる。いろいろな機械、てこも滑車も車輪も斜面も、力学の諸原理がまだ発見されないときにみな知られていた。(略) 無線電信の歴史を見ても明らかなとおり、実地の応用が成功した場合、思想はたちまち器具の列に加えられる。実験は方法の女王だという陳腐な考えは捨てなければならぬ。実験上の探究に道具や人の手を無視できないだけであって、道具をおき、手をこまぬき、精神から鋭敏な自然に質問を発することもまた必要なのである。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間の声といふものに対する郷愁を抱かなければ、ことに宗教とか文学の場合は、身にしみてわからないと言つてもいゝのではないかと思ひます。(略) 親鸞聖人も信ずるといふことと、聞くといふことを一つのものとして重要視してゐることです。道元の 「正法眼蔵」 を読んでみますと、如来全身といふ言葉があります。つまりお経といふものは如来そのものであつて、如来の声そのものであるといふな言ひ方をしてをります。本を読むと言はずに、本を聞くといひませうか、本のなかに、つまり経文のなかに如来の音声を聞く、さういふ態度をとつてゐる。つまり邂逅の直接性を、いかに重んじたかといふことのあらはれだと思ふのです。

 


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