思想の花びら 2023年12月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  いきおい寺院にある人の心は神をおそれるよりむしろ神を求めるように働く、しかも、夢想はやはり常に人間の土地にあらゆる人間の秩序に連れもどされる。人間となった、という言葉の意味は明瞭である。並べられたさまざまな絵は精神を同じ道に連れもどす、外的な神をたのまず人間の希望をかたどるのにいかにも適切な聖母の絵はことにそうだ。こういう筋道の通った知恵と外的ないろいろな怪物との対象が効果をいっそう大きくする。したがって寺院にはいってくる人は安心と救いとを感ぜざるをえない。だが同時にいかめしい礼儀が強制される。声を出しても身動きをしてもその音は四方に反響し、見上げ見下す目の動きとともに丸天井にはねかえり石畳の上に落ちてくる、ただでさえびくびくしている人をおどかす。要するに寺院ではなにものも気まぐれにはできていないのである。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間と人間との真の結合は可能だろうか。結合するための 「理解」 とは、表面上の一種の契約かもしれない。何びとも真の理解に達することは出来ず、理解しえたという錯覚の上に安心しているのかもしれない。「理解」 という唯ひとつの言葉をとりあげても、人間の存在はこのように不安である。大切なのはそれを自覚することだ。あるいは信仰とはこうした不安を自覚させるものでなければならない。無自覚に過すということは人間として一つの悲惨ではなかろうか。

 


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