思想の花びら 2019年 9月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  いわゆる実験心理学あるいは生理学的心理学というものの骨組の脆弱なことだ。「自己とは意識の諸状態の集合にほかならぬ」 おそらくこのくらい教訓に富む間違いもあるまい。この ヒューム の公式は、破壊にかけてはじつに勇敢だったが、再建にかけてはいかにも無邪気だったこの人物の限界を明らかに語っている。これでは意識の状態は事物の格好でうろつくものだということになるではないか。ヒューム の自称経験主義は、その細部に至るまで、弁証法的だ。彼は、石とか短刀とかくだものとかいうのと同じ調子で、感情とか心像とか記憶とかという。そしてこういうものを寄せ集めて、じょうずに精神を縫いあげてみせる。だが、じょうずにもへたにも縫い上げられた精神というものはこの世にない。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  即ち死の直前、奇蹟はつひにあらわれなかつた。これは驚くべきことではなからうか。二人の強盗とともに十字架に苦悶してゐたとき、祭司長・学者・長老・往来のものどもは口々に嘲弄して言つた。「汝もし神の子ならば怒れを救へ、十字架より下りよ」「人を救ひて己を救ふこと能はず。彼は イスラエル の王なり。いま十字架より下りよかし、然らば我ら彼を信ぜん」 と。これに対する耶蘇の断末魔の叫びは、世にも悲痛なものであつた。「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」──そして息絶えたのである。跛行者を立たしめ、石を変じて パン とした彼の奇蹟は、激甚な祈りにも拘らずつひにあらはれなかつたのである。万事をはれり。私にはこれが耶蘇自身における最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。
  精神の復活でも肉体の復活でもない。十字架上に悶死したといふ、覚醒してゐればゐるほどいよいよ明確なその事実ゆゑに、後代人は二千年間彼を離れえなかった。たとへ疑つても彼を念頭におかないわけにゆかなかつたといふことだ。癩者を癒したその奇蹟において必ずしも彼の信仰が確立したわけではない。己の死に面してつひに奇蹟が起こらなかつたところに彼の信仰は永遠性をえたのだ。

 


  × 閉じる