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/ 2004年12月16日 / 

 

 ● 提示された論点は ...

 [ データ構造 ]

 取引先 entity {取引先コード、取引先名称、前株後株区分コード、下請区分コード}.

 
 [ 前提 ]

 (1) 「前株後株区分コード」は、「株式会社」を、取引先名称の前に置くか、後に置くか、という指示である。
     ただし、すべての取引先は、株式会社とする。
 (2) 「下請区分コード」は、「下請け」か、「下請けでない」か、という記述である。
     ただし、すべての取引先は、「下請け」か、「下請けでない」とする。

 
 [ 論点 ]

 「前株後株」 と 「下請」 には、従属性 (あるいは、包摂関係) はない。
 T字形ER手法のサブセットでは、どのように記述すればよいのか。

 
 ● 構文論的には、集合のあいだの「外延」関係が検討されなければならない ...

 2つの集合 (2項関係) には、以下の5つの関係が成立する。

 (1) A が B をふくんで、さらに、ひろがっている。
 (2) B が A をふくんで、さらに、ひろがっている。
 (3) A と B は、たがいに、一部、まじわっている。
 (4) A と B には、まじわりがない。
 (5) A と B は、同じである。

 以上の考えかたを、まず、思い浮かぶようにしてください。
 現象 (対象的事実) を、「モノと関係」 として記述するには、まず、2つのモノが、どういう状態にあるか、という点を調べます。

 さらに、「モノ」を考える際、「個体と集合」という観点から検討します。
 個体は、集合のメンバーです。さらに、集合をメンバーにして、集合を作ることもできる (「類と種」という概念です)。

 「セットとサブセット」というのは、複数の集合 (1つのセットと、2つ以上のサブセット) のあいだで、以下の2つの関係が成立していなければならない。

 (1) 「is-a」 関係 (汎化・特化)
 (2) 「instance-of」 関係 (抽象化・具体化)

「is-a」 関係というのは、たとえば、「従業員」集合は、「正社員」集合と「パート」集合 から構成される、ということです。「instance-of」 関係というのは、たとえば、「正社員」集合のメンバーは、さらに、具体的には (下位の階として)、「2004年度入社の正社員」というふうに、メンバーとして、具体的にできる、ということです。

 TMの体系は、命題論理とセット概念を使っています。
 TMの体系では、あらかじめ、TMの定義によって、(「S-P」形式として、) 「認知番号」を付与された文の集まりを、entity として認知して、周延を検証するために、entity のなかを、いくつかのサブセットとして、区切ります。
 言い換えれば、いくつかのサブセットの論理和が、1つのセットになる、という構成になっています。セットとサブセットは、包摂関係が成立しています。

 
 ● 包摂関係は、仮言命題として考えることができる ...

 構文論的には、包摂関係は、(「仮言命題」として、) 以下のように考えます。

   A ⇒ B. (もし、A ならば B である。)

 A を「前件」といい、B を「後件」と云います。たとえば、以下の2つを考えてみましょう。

 (1) 下請である(x) ⇒ 取引先である (x).
 (2) 取引先である(x) ⇒ 下請である(x).

 仮言命題の「もし、A ならば、B である (A ⇒ B)」は、「もし、B でないならば、A でない (¬ B ⇒ ¬ A)」と同値である--「¬」は、「...でない」(論理的否定) を記述している。
 「¬ B ⇒ ¬ A」は、後件否定式とも云われていて、論証のなかでは大切な論法なので、「対偶」という特有の呼称を付与されている。「もし、A ならば、B である」は、「B であるときにかぎって A である」と同値である。
 したがって、前述した2つの論理式は、以下のように変換できます。

 (1) 取引先であるときにかぎって、下請である。
 (2) 下請であるときにかぎって、取引先である。

 (2) は、成立しますが、(1) は成立しない。
   -  x は、取引先である。
   -  x は、取引先である。
   -  x は、下請である。
   -  x は、下請でない。

 すべての「取引先」は、「下請か、下請でない、のいずれか」である--しかし、その逆は、真ではない(「すべての『下請』は、『取引先か、取引先でない、のいずれか』である」は成立しない)。なぜなら、「取引先」でないモノは、対象的事実になっていないから。

 論理式 「A ⇒ B」 は、包摂関係 「A ⊃ B (a ∈ B)」 と同値です。
 したがって、構文論的には、以下のようになるでしょう。

  取引先である(x) ⊃ 下請である (x).

 
 したがって、以下の構造を作ることができる。

   取引先
    |
    = 下請区分コード
    │
    ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請)
    │
    │
    └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請でない)

 「株式会社」という形態呼称そのものは、--たとえば、株式会社SDI のように--取引先名称を構成するが、名称の記述場所 (座標) を指示する「前株後株」は、名称の「part-of (集約・切断)」関係ではない (名称の一部ではない)。

 したがって、以下の構造になるでしょう。

   取引先
    |
    = 下請区分コード
    │
    ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請)
    │
    │
    └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請でない)

 取引先. 名称記述 [ VE ]
 {取引先コード(R)、前株後株区分コード}.

 
 構文論的には、以上の構造が妥当でしょう。
 しかし、意味論的には、「前株後株」 も 「下請」 も、取引先 entity には帰属しない。

 
 ● 意味論は、モノの「性質」を、状態と作用に切り離す ...

 たとえば、以下のような「存在論」を考えてみましょう (「モデルの解釈」という論点です)。

  (1) 状態 -- モノそのものの性質(第一性)
  (2) 作用 -- 事態のはじめと事態の終わりの間に生じる作用(第二性)

 もし、そういう考えかたをすれば、「下請」は、「取引先」の作用 (そのER図を作成している主体と「取引先」が契約して成立している作用) である、というふうに判断することができる。とすれば、「下請」は、「取引先」のなかに帰属しない性質となる。

 「TMの体系」は、(意味論的前提--「resource」 概念と「event」 概念--を起点にした) 構文論であるが、「TM’の体系」は、「状態と作用--「resource」 概念と「event」 概念--」という概念を、指示関係のなかで、つよく適用している。さらに、「TM’の体系」では、(TMの体系のなかで認知された集合をメンバーとする) クラス概念も使う。

 
 サブセットの論点を、はっきりするために、「取引先区分コード」を、新たに加える。「取引先区分コード」は、「出荷先」か「納入先」のいずれかとする--「AND」関係はない、とする。

 取引先 entity {取引先コード、取引先名称、取引先区分コード、下請区分コード}.

 
 さて、取引先区分コード(出荷先か納入先) と下請区分コード(下請か、下請けでない) は、サブセットとして、包摂関係が論点になる。
 構文論的には、以下の2つを作ることができる。

 (1) 下請区分が上位の階となる。

   取引先
    |
    = 下請区分コード
    │
    ├(下請である)
    |   |
    |   = 取引先区分コード
    │   │
    │   ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (出荷先)
    │   │
    │   └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (納入先)
    │
    │
    └(下請でない)
        |
        = 取引先区分コード
        │
        ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (出荷先)
        │
        └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (納入先)

 
 (2) 取引先区分が上位の階となる。

   取引先
    |
    = 取引先区分コード
    │
    ├(出荷先である)
    |   |
    |   = 下請区分コード
    │   │
    │   ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請である)
    │   │
    │   └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請でない)
    │
    │
    └(納入先である)
        |
        = 下請区分コード
        │
        ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請である)
        │
        └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (下請でない)

 
 サブセットの階は、かならず、包摂関係である。すなわち、1つのセットに対して成立する階のなかで、「is-a」関係と「instance-of」関係が成立しなければならない。すなわち、1つのセットに対する階のなかで、「観点の違う (複数の)」視点は成立しない。
 したがって、上下の階を入れ替えて、「意味」が成立するなら、構造は妥当ではない。

 (「関係の論理 R{a, b}」では--ただし、a および b を、主体集合とするが--、)「下請」という性質は、--たとえば、「a は、b に対して、下請けである」 というふうに--「関係」のなかで成立する性質 (「取引先」の作用) であって、個体そのもの の性質 (「取引先」の第一性) ではない。

 「作用」を判断するルールは、「...に対して (...のとき、...になった)」という関係を調べれば良い。たとえば、「取引先 a は、(弊社に対して、) 2004年12月に、下請になった」という言明は成立するが、「取引先 a は、(弊社に対して、) 2004年12月に、出荷先になった」という言明は成立しない--なぜなら、出荷先は、取引先に対して「特化」関係 (「is-a」 関係) だから。すなわち、出荷先であることが、そのまま、取引先になるから。

 「状態と作用」を判断するためには、「...に対して」というルールを使えば良い。もし、「...に対して」という性質が、entity (状態) のなかにあれば、意味論的には、entity から切り離さなければならない。

 したがって、意味論的には、以下の構造になる。

   取引先
    |
    = 取引先区分コード
    │
    ├{取引先コード、取引先名称}[ R ] (出荷先)
    │
    │
    └{取引先コード、取引先名称}[ R ] (納入先)

 取引先. 名称記述 [ VE ]
 {取引先コード(R)、前株後株区分コード}.

 取引先. 下請 [ VE ]
 {取引先コード(R)、下請区分コード}.

 
 ● 構文論か意味論か ...

 上述したように、構文論を主体にして作った構造と、意味論を主体にして作った構造が相違する、という「やっかいな」現象が起こる。たとえば、「入社日」が、コッド関係モデルとチェンER手法では、記述される場所がちがうことを想い出してほしい--コッド関係モデルでは、従業員のなかに (関数従属性として) 帰属する性質であるが、チェンER手法では、(「従業員」entity とはべつにして、) 「入社」という関連型 entity のなかで記述される。

 対象言語のなかの意味論は、「メタ」言語のなかで、構文論として扱うことができる (「ベーシックス」 368ページを参照されたい)。ただし、自然言語には、「メタ」言語はない。とすれば、このズレ (意味論と構文論) を埋めるためには、「意味論的前提に立った構文論」を考えなければならない。そのために、TMの体系は、「event」概念と「resource」概念という意味論的前提 (指示規則) を、構文論 (4つの生成規則) の起点 (初期前提) として使った。

 
 ● 「存在論」 と 「認識論」 ...

 T字形ER手法は、関係の論理を根底にしているが、まず、(認知番号を前提にして、) 個体-- a および b --を記述する。個体の性質として、「関係 R」のなかで成立する性質は記述されない。
 「モノと関係」を考えるなら、「存在論」と「認識論」を検討しなければならない。

 西洋哲学の存在観には、以下の2つがある。

 (1) 実体論
 (2) 関係主義的存在論

 実体論とは、独立自存する「実体」があって、実体のあいだで、第二次的に「関係」が成立する、という考えかたである。関係主義的存在論とは、「関係」こそが第一次的な存在であり、「実体」は、関係のなかの変項 (パラメータ) にすぎない、という考え方である。
 小生 (T字形ER手法) は、関係主義的存在論を前提にしている。

 モノとは、「...のとき、...の所にある」対象的事実である。実体論を前提にすれば、「対象的事実」は、認識主観とは無関係に独立自存すると考えられる。しかし、(時空が相対的であるとすれば、) 認識論的に言えば、「同一与件」に関する様々な観測系での様々な観測現相を、間主観的な統一相で定式化した「所知態」が対象的事実にほかならない、ということになる。とすれば、「対象的事実」とは、間主観的に--観測している認識主体のあいだで--なんらかの形で定式化されて、合意された所知態である、ということになる。
 おおまかに言い切ってしまえば、「合意された統一相」ということです。こういう天才的な着想は、僕が言ったのではなくて、アインシュタイン氏やホワイトヘッド氏が論証したことを、僕は転用しているだけです(笑)。

 「真」概念が、「記号と対象的事実との対応関係(指示関係)」であるとすれば、(記号を、言語とすれば、) 言明が「真」であるためには、対象的事実との指示関係が成立していなければならない。(事実と記号の) 指示関係として、以下の2つを考えることができる。

 (1) 写像理論 (事態と言語は、「論理形式を共有している」はずである、という考え。)
 (2) 合意的規約

   ウィトゲンシュタイン氏は、間主観的な認識を排除して--おおまかに言えば、認識論を排除して--、言語が成立する理由として、当初 (「論理哲学論考」では、)、(1) を考えていた。しかし、のちのち (「哲学探究」では、)、ことばの意味は、生活様式を共有する言語行為 (我々がきめた文法規約の使用)のなかで成立する、という (2) の考えかたを提示した。ちなみに、ウィトゲンシュタイン氏の哲学は、エンジニア的哲学とも云われている。

 前回、ポパー氏の「3つの世界」について語った。
 (1) 第1世界 (対象的事実)
 (2) 第2世界 (認識主体)
 (3) 第3世界 (論理)

 ウィトゲンシュタイン氏は、前期(「論考」)であれ、後期(「探求」)であれ、ポパー氏のいう第2世界的な認識を排除している。
 T字形ER手法が目的とした1つは、事業を対象的事実とすれば、データ構造を作るSEという認識主体 (恣意性) を排除することだった。そのために、「合意」(「同一与件」に関する様々な観測系での様々な観測現相を、間主観的な統一相で定式化した「所知態」)として、コード体系を使って、モノを認知することにした。

 

 

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