このウインドウを閉じる

That is not good language which all understand not.

 

 三島由紀夫氏は、かれの エッセー 「小説家の休暇」 のなかで、以下の文を綴っています。

     かうして事実の世紀と呼ばれる現代では。行為の代りに事実
    が繁茂してゐる。ジャーナリズム は決して表現を試みない。(略)
    ジャーナリズム の試みることは、事実の世界と事実の世界の
    仲介の仕事だけであり、伝達可能の範囲で伝達にいそしんで
    満足してゐる。しかし表現の真の機能は、伝達不可能のものを
    伝達することなのである。

 この文が私の興味を惹いた理由は、「伝達可能な事態を記述する」 仕事 (ジャーナリズム の仕事) と 「伝達不可能な妙態を表現する」 仕事 (芸術家の仕事) が 「表現」 を軸にして対比されているからです。というのは、私 (佐藤正美) は、システム・エンジニア の職に就いていて、事業過程・管理過程を対象にして モデル を構成する仕事をしているいっぽうで、若い頃 (高校生の頃) から 「純文学」 を 40年間に及んで読んできて、小説家・詩人の仕事に対して共感を抱いてきました。それら ふたつの対照的な性質のあいだで私は、つねに揺らいできました。それら ふたつの性質のあいだで揺らいできた思いを綴った エッセー が、「反 コンピュータ 的断章」 と 「反文芸的断章」 です。それらの対照的な性質のあいだで、それぞれ、最大の テーマ となるのが 「形式」 です──すなわち、「形式」 とは、事実の伝達では 「論理法則」 であり、芸術の表現では 「文体」 である、ということです (この点については、「反 コンピュータ 的断章」 2008年11月16日 を参照してください)。

 さて、本 エッセー は、「反 コンピュータ 的断章」 の エッセー なので、「事実を伝達する記述」 について考えてみます。「事実を伝える記述」 を論じた学問領域が 「真理論」 です。「真理論」 には、諸説──「対応説」 「整合説」 「余剰説」 「合意説」 など──が提示されてきました (この点については、本 ホームページ 55ページ 「タルスキー を読む」 を参照してください)。私は、T字形 ER手法 (TM の前身) を作ったとき、「対応説」 を前提にしていました──尤も、そのときでも、「ことば は、語彙の状態では、事実とのあいだで、対応関係が かならずしも成立しない」 [ たとえば、「分類 コード」 で指示される 「分類」 を考えてみてください ] ことを承知していたのですが、語彙を使って文を構成した状態であれば、関係 aRb の記述として 「真理値表」 を前提できるので、とりあえず、「対応説」 を使った次第です。この 「対応説」 は、ウィトゲンシュタイン 氏の前期哲学 (「論理哲学論考」) の説です。

 私は、19歳のときから ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を読んできて──ただ、当時、かれの難解な哲学を ほんとうに理解できていたかは疑問で、私が かれの哲学を なんとか理解できるようになったのは、たぶん、45歳頃 (1998年頃) だと思いますが──、かれが、前期の考えかたを修正 (否定 ?) して、「哲学探究」 を記したことも若い頃に知っていました。「哲学探究」 は、いわゆる 「意味の使用説」 を示しました。ただ、当時の私には、「哲学探究」 が 極当たり前のことを とりとめもなく──なんら脈絡もないままに──羅列しているようにみえて、理解できなかったので、「哲学探究」 の考えかたをT字形 ER手法のなかに取り込めなかった。「哲学探究」 の考えかたをT字形 ER手法のなかに導入できる準備ができたのは、拙著 「論理 データベース 論考」 (2000年出版) を脱稿したときでした。

 拙著 「論理 データベース 論考」 は、世評の悪かった著作ですが──コンピュータ 関連の或る雑誌の書評では、「独断的」 とまで酷評されたそうですが (笑)──、私にとって 「転換点」 となった著作です。「論理 データベース 論考」 は、その前半を数学基礎論の概念・技術を網羅的に列挙していて、それが世評では ウケ なかったようですし、私が 「数学に傾斜した」 ような感を与えたようですが、「論理 データベース 論考」 が検討した点は、寧ろ逆であって、数学的意味論 (完全性) の 「恒真 → 証明可能性」 を、事業過程・管理過程を対象にした モデル に対して、そのまま適用できないのではないかという疑問を提示しました。「完全性」 を経験論的言語 L に適用するとき、「意味論的恒真」 というのが いったい どういうことを云うのかが争点になります。この点が 「真理論」 の争点です。

 「自然言語」 に対して形式的構造を与えること自体は、それほど難しい作業ではない──ロジック の 「論理法則」 さえ知っていれば、そして、「論理法則」 を使う訓練を積めばできることです。ただ、ここで争点になるのが、「自然言語」 と 「現実的事態」 との関係です。この点が言語哲学的意味論の探求点です。この点を最初に取り組んだのが フレーゲ 氏です。したがって、言語哲学的意味論を学習するには、まず、フレーゲ 氏の著作を読まなければならないでしょうね。フレーゲ 氏は、「思想」 と 「対象」 のあいだで、以下の・ いわゆる 「同値 テーゼ (equivalence thesis)」 を示しました。

  思想 「雪が白い」 が真であるのは、対象 「雪」 が概念 「白い」 に属する場合に限る。

 そして、この 「同値 テーゼ」 は、タルスキー 氏が示した 「規約 T」 において、対象言語の文を メタ 言語のなかで同値文として翻訳できる可能性を与えています。すなわち、

  文 「Snow is white」 が真なのは、雪が白いとき、そして、そのときに限る。

 そして、この 「翻訳概念」 を転用して、「真」 概念を 「意味」 として──「意味」 の テスト文として──使ったのが デイヴィドソン 氏です。すなわち、

  言明 "p" が真であるのは、時刻 t において、事態 p と一致するとき、そして、
  そのときに限る。

 さて、拙著 (「論理 データベース 論考」 「データベース 設計論」 および 「モデル への いざない」) を読んだひとは、上述した系統のなかで TM が整えられてきたことを理解できるでしょう。ただ、上述した系統 (特に、「翻訳概念」) は、「L-真 → F-真」 という必要条件 (真理条件) を構成しているのであって、「F-真 → L-真」 という十分条件を構成している訳ではない点に注意してください。「真理条件」 の原初の形──すなわち、「対象」 と 「言語」 との関係 (すなわち、「対象 → 言語」)──は、曖昧なままです。どうして、この関係が 「真理条件」 に比べて探求されてこなかったのかと言えば、たぶん、この関係は 「表現関係」 として把握されていて、意味論の争点たる 「指示関係」 ではないからかもしれない。しかし、事業過程・管理過程を対象にして モデル を構成するとき、一番の難点が、この関係 (「対象 → 言語」、あるいは、「意味の成立」) なのです。単純に言えば、事業過程のなかで 「情報」 を伝達して 「意味」 が疎通できるのは どうしてなのか、という点が言語哲学的意味論の探究点です。この点こそ ウィトゲンシュタイン 氏が後期哲学 (「哲学探究」) で考え抜いた テーマ でした。言い換えれば、「言語 → 対象 (L-真 → F-真)」 という 「指示関係が成立するための」 前提がなければならないということです──ウィトゲンシュタイン 氏は、当初 (「論理哲学論考」では)、「解釈者」 の視点を抹殺して 「指示関係」 を考えていましたが、後期哲学では、「行為」 「規約」 「意図」 などを検討して、「生活様式 (あるいは、文脈)」 を強く意識するようになりました。

 完全性 (意味論的恒真 ←→ 証明可能性) を事業過程・管理過程において実現するのであれば、「F-真 ←→ L-真」 という単純な翻訳ではなくて──しかも、「L-真 → F-真」 という真理条件を維持するのであれば──、経験的言語 L では、「(生活様式のなかで) 合意された語彙 → L-真の文 → F-真の験証」 という構成要件にすれば、モデル の正当化条件を示しやすいのではないでしょうか。この正当化条件が、拙著三部作 (「論理 データベース 論考」 「データベース 設計論」 と 「モデル への いざない」) で検討してきた点であって、T字形 ER手法が TM へと変化した導因でした。

 
 (2009年 5月 1日)

 

  このウインドウを閉じる