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Don't teach fish to swim.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「言の然いふ本の意をしらまほしくする事」 を綴っています。(参考)

     学問をする人々は、古言の語源を知りたがって、人にもまず
    たずねるのがふつうである。語源というのは、たとえば 「天を
    アメ というのはどんな意味か」 「地を ツチ というのはどんな
    意味か」 といった類である。これも学問の一つであって、当然
    すべきことではあるが、さしあたって主として学ぶべきことでは
    ない。だいたい古言は、その語源を知ろうとするよりは、昔の人
    の用いた意味を、十分に明らかにしたならば、その語源は知ら
    なくてもすむことである。いったい何事も、まずその根本を十分
    明らかにして、枝葉のことは後まわしにすべきことは無論だが、
    そうばかりでもないことで、事情によっては、枝葉の方からまず
    研究して、その後に根本へさかのぼって考える方がよいことも
    あるのである。

 私 (佐藤正美) は、上に引用した文に対して同感を抱いています。かつて、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで、「学習法」 のひとつとして、宣長が 「玉勝間」 のなかで記した やりかた を私は賛同しましたが、その やりかた が適用された ひとつの例が上に引用した意見でしょうね。私は、「概念定義」 そのものに対して ほとんど興味がないのですが──勿論、まとまった エッセー の書き出しで、エッセー のなかで使う主要概念に関して、「この ことば を このように使います」 という程度の定義は導入しますが──、「用例 (ことば の実際の使用態)」 にほうを重視しています。私の そういう態度は、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学から学びました [ 宣長から学んだ訳ではなかった ]。

 そして、私の そういう態度が、「現実的事態」 (あるいは、「事実」) を記述するために、どういう 「語彙・措辞」 が使われているかという点──私の仕事 (事業解析、データ 設計) においては、事業の 「意味」 を伝えるために、いくつかの 「語彙」 が羅列された一つの意味単位の 「情報」 という状態──に眼を向ける職業的習性を産んだようです。「措辞」 というのは、「ことば の使いかた」 という意味であって、私の仕事で云えば、ロジック を使って形式的構成を作る 「文法」 のことです。そして、形式的構造を いったん作ったあとで、その構造のなかで、しかじかの単語が どのような 「意味」 で使われているかを調べます。つまり、文脈のなかで単語の意味を把握するということ。それを ウィトゲンシュタイン 氏は、(「論理哲学論考」 のなかで、) 「哲学は、思考可能なものを通じて、思考不可能なものを内側から境界づけねばならぬ」 と綴っています。かれの云う 「哲学」 は 「言語批判としての学」 です。

 形式的構造を 「関数」 として考えれば、構造のなかの項は 「変数」 であって、クワイン 氏流に謂えば、「存在する」 ということは、「変数」 たり得ることで──勿論、付値される (値が充足される) ということですが──、「変数」 であれば、指示対象は変わるので、「(文の) 解釈」 から独立して 「(対象の) 指示」 ができる訳ではないでしょう。言い換えれば、「指示」 は、「枠組み (形式的構造)」 の総体を前提にした全体論的な 「解釈の内部 (from inside)」 からしかおこなえない。逆に言えば、そういう 「枠組み (範囲の限られた構造)」 を無視して、システム・エンジニア が 「勝手な 『解釈』」 を導入することはできない、ということ。

 10数年ほど昔の話になりますが、あまりにも馬鹿げた出来事だったので今でも鮮明に覚えていて、前述した態度──文脈のなかで単語の意味を確認する態度──と逆なことをやっていた システム・エンジニア のことを思い出したので、ここで記しておきましょう。或る ソフトウェアハウス の システム・エンジニア (20歳代後半か 30歳代前半) が私の ユーザ を訪問してきて、「説明会」 と称して 「事業解析のやりかた」 について プレゼンテーション しました。彼女曰く、「日本人は、ボトムアップ 法と称して・重箱の隅をほじくるように細かなことばかりに気を取られて、『全体』 を観ない欠点があります。欧米では、まず、『全体』 を把握するためにトップダウン 法を使います」 と。で、彼女が その トップダウン 法と称した やりかた ではじめたことは、「まず、事業では、商品がありますよね」 と言って 「商品」 の 「箱 (entity)」 を描きました。私は、ユーザ 企業の社員じゃないので、部屋の後のほうで傍聴していただけでしたが、彼女の話を聴いて唖然としました──私が唖然として思った点は 「いったい、彼女の話している中身は、だれに向けての話なのか、、、中学生・高校生か、、、」 ということ。私は ユーザ たちの顔を探ってみました。ほとんどの人たちは、苦笑していたか退屈そうな顔つきでした [ 当然でしょうね ]。彼女の やりかた は、トップダウン 法ではなくて、「無責任 (あるいは、でたらめ)」 と常識では云うはずです。そういう でたらめ でもって、「全体を把握する」 と仰々しく言われたら唖然とするしかない。現実に営まれている事業を無視して、「to-be」 と称して 「事業は こうあるべきだ」 という大雑把な意見を述べている システム・エンジニア の姿は、ユーザ の眼には阿房に見えたでしょうね、きっと。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 6月 8日)

 

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