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A well-written Life is almost as rare as a well-spent one. (Thomas Carlyle)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション biography のなかで、以下の文が私を惹きました。

    There is properly no history, only biography.

    Ralph Waldo Emerson (1803-82) US poet and essayist.
    Essays, 'History'

 
 歴史学者が読んだら、怒りそうな文ですね。でも、「文学青年」 たる私には、エマーソン 氏の言は実感として伝わってきます。個々人の伝記 (biography) を集積しても 「歴史」 になる訳じゃないのであって、個々人が集まった 「社会」 は 「社会」 としての集合的性質を現して 「歴史」 を刻むのでしょうね。そして、(荻生徂徠の言を借りて言えば) 「されば、見聞広く事実に行わたり候を、学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候。古今和漢へ通じ申さず候へば、此国今世の風俗之内 (うち) より、目を見出し居り候事にて、誠に井の内の蛙に候」 なのかもしれない。しかし、「文学青年」 たる私は、個々人の生活 (生きかた) のほうに惹かれる

 個々人の生活 (生きかた) に惹かれるのであれば、その人の 「伝記」 を読んでみたいというのも自然な思いでしょう──私は、じぶんの好きな作家たち (小説家、音楽家、画家) の 「伝記」 を丁寧に読んできました。私のような凡人が かれら天才たちの生きかたを真似ようとする気など更々ないし、かれらが いかなる生きかたをしたが故に ああいう作品が生まれたという因果を探るつもりも毛頭ないのであって──勿論、かれらの生きかたが作品を産んだのであって、生きかたと作品には なにがしかの相関はあるのですが──、私は 「伝記」 を一つの作品として読んでいます。すなわち、かれらが私の近所で生活していて、かれらの生きかたを眺めているという読みかたです。

 伝記的な映画も私は観ます。「モンパルナス の灯」 という映画は、私の大好きな画家 モジリアニ の伝記的映画でした──勿論、映画であるからには作品であって、かれの伝記そのものじゃない。その映画のなかで、貧乏な モジリアニ は、作品が売れて、やっと 幾何か金銭を手にするのですが、妻が出産を間近にしているにもかかわらず、かれは その金銭で酒を買って呑んで、残金を川に投げ捨てる場面がありました。その場面で、私は、思わず 「あっ」 と仰天の声をあげました──私が凡人である証です。

 天才たちの 「伝記」 を読んで、かれらが天才である所以を探ろうという覗き趣味など私は更々持っていないし、逆に、天才たちも我々 凡人と同じように卑俗な性質を持っているというようなことを言い立てて──たとえば、バッハ は守銭奴だったとか、ベートーヴェン は頑固 オヤジ だったとか──天才を ひきずり下ろす下衆い趣味も私は毛頭持っていない。天才が じぶんを凝視して じぶんを持てあまして苦しんでいる様を描いた伝記は作品ですし、そして、そういう作品を綴るには伝記作家にも そうとうな力量がなければならない──ロマン・ロラン 氏のように。正確な資料を並べても伝記になる訳じゃない。だから、伝記は文芸の性質を帯びるのでしょうね。

 
 (2011年 7月 8日)

 

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