2005年 4月16日 作成 読書のしかた (歴史書) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 4月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「歴史書」 について考えてみましょう。

 
 (本 ホームページ のなかに記載されている) 「読書案内」 をご覧いただければ、小生が、歴史に対して、多大な興味を抱いていることを、ご理解いただけるでしょう。そして、「読書案内」 のなかに記載されている書物を、ご覧いただければ、小生が、「通史」 としての歴史に対して興味を抱いているのではなくて──「通史」 として、興味を抱いている領域は、「風俗史」 のみであって──、個々の 「できごと」 を主体にして、歴史を観ている点を、ご理解いただけれるでしょう。

 「歴史」 に対して、小生が抱いている興味は、小生が生まれ育った昭和時代のなかで、小生が住んでいた社会のなかで、どのような 「できごと」 があったのか、ということを調べて、小生が、どのような社会のなかで育ったのか、という点を調べることが目的です。したがって、社会 (あるいは、国) が、長い歴史的推移のなかで、どのように形成されてきたのか、という 「歴史の真相」 を調べることに対して、小生は興味を抱いていないようです。小生の興味は、「大きな歴史」 に対して向けられているのではなくて、「小さな歴史 (事件)」 に対して向かっているようです。

 実際に起こった「小さな歴史 (事件)」 は、小説に比べて、読み物として、遜色ないほど、興味を惹きます。小生は、ひょっとしたら、「小さな歴史 (事件)」 を、文芸的に読んでいるのかもしれない。

 歴史的事実の記録は、事実を時系列に沿って記述してあるので、文芸的 シナリオ のような 「山場」 がない。坂本龍馬が大江屋で暗殺されたことも、一人の殺人犯が絞首刑で (世の中から) 抹殺されたことも、或る ユダヤ 人が アウシュヴィッツ の 「焼却炉」 のなかで、生身のまま、焼き殺されたことも、それぞれ、1つの 「できごと (事実)」 として記録されたら、同列に扱われます。しかし、そういう 「(個々の) 事実」 を、淡々として、記録して、そういう 「(個々の) 事実」 を集めても、「歴史」 にはならないのでしょうね。

 小生は、「歴史学」 の専門家ではないので、「歴史」 を記述する際、「歴史観」 が前提になるのかどうか、という点を的確に述べることができないのですが、少なくとも、膨大な 「できごと」 の記録を材料にして、先行する 「できごと」 と後続する 「できごと」 との関係を、「理由と影響」 という観点から記述して体系化するのが、「歴史」 の記述なのでしょうね。とすれば、「歴史」 を記述する人の 「歴史観」 が前提になるかもしれない。「歴史」 のなかに、(自然科学が目的としているような) 「原因と結果」 を探ることが、科学としての 「歴史学」 なのでしょうが、人間には、「(行為を) 選択」 する力 (ちから) があるので、「歴史」 を、完全な因果関係のなかで記述することはできないのではないでしょうか。だから、小生は、(2つの 「できごと」 のあいだに成立すると思われる関係を (「原因と結果」 ではなくて、) 「理由と影響」 というふうに綴りました。
 「理由」 に対して、それを聞いた人は 「賛同しかねる」 という言いかたができますが、「原因」 に対しては──「原因」 は、必然的な因果関係なので──、そう言うことはできない。

 信憑性の高い資料を数多く集めて、それらのなかに記述されている 「できごと (事件)」 を正確に観て、かつ、それらのあいだに成立する 「理由と影響」 を感知して、長い歴史的推移を記述する、ということは、そうとうな力量がいるので、専門的技術を習得した専門家 (歴史家) しかできないでしょうね。教養ある大衆が、歴史家に対して期待していることは、(個々の 「できごと」 を、正確に記述するのみではなくて、) 様々な 「できごと」 のあいだに成立している 「理由と影響」 を感知して、長い歴史的推移 (「大きな歴史」 の 「真相」) を記述することでしょうね。

 小説と同じように、歴史の書物も、生活に対して、直接には、影響しない。自らが生まれ育った国が、どういうふうに成り立ってきたのか、あるいは、時の流れの中で、どのように変わってきたのか、という点に対して、興味を抱いていないかぎり、歴史の書物を読むことは、まず、ないでしょうね。小生が、歴史の書物を読むきっかけになったのは、自らの育った昭和時代を調べたかったことのほかに、(小生が、若い頃、海外出張が多かったのですが、) 外国の人たちに日本のことを訊かれて、小生が、驚くほどに──恥ずかしいほどに──、「自らが生まれ育った国のことを知らなかった」 のを思い知ったからです。自らの生活様式 (思考・行為・衣食住など) に対して多大な影響を及ぼしている環境 (地理的な自然・政治・文化など)──そして、その環境は、時の流れのなかで変形してきているのだから──を知らない (あるいは、知りたい、と思わない) というのでは、怠惰の誹りを免れないでしょうね。
 「日本史」 の概説的通史に対して、小生は、興味を抱いている訳ではないのですが、(「自らの国を知らない」 ことを思い知ったので、) 「教養」 として、通史の書物を読んでいます。

 「小さな歴史 (事件)」 を、小生は 「文芸的」 に読んでいるかもしれない、と前述しましたが、個々の事件のなかで、そして、極限状態のなかで、人々は、どうのように考え、どのように感じるのか、という点を、小生は知りたいのです。

 たとえば、死刑 (絞首刑) が執行される際、絞首場に、静かに・穏やかに向かう死刑囚もいれば、(逃れられないとはわかっていながら、逃れようとして、) 取り乱して暴れて、取り抑えられ、両脇を看守に羽交い締めにされ、絞首場まで連行され、失禁する死刑囚もいるかもしれない。絞首場の隣には、小さな部屋があって、仏壇として、自らの位牌が置いてあり、死刑囚は、自らの位牌に向かって、今から迎える自分の末期に対して、自ら、冥福を祈り、最後の一時(ひととき)を過ごし、もし、煙草を吸う死刑囚であれば、煙草を吸う一時 (ひととき) を与えられるかもしれない、、、ただ、煙草を吸う数分の余命しかない。数十分あとには、確実に、この世のなかには、存在しない、ということが、自ら、意識できる。死刑の執行まで、監獄 (小さな独房) のなかに閉じこもって、いつ、執行の通知があるのか、怯えながら、日々を送っているかもしれない。食事を配るときの靴音のほかに、日中、自らの独房のほうに、靴音が、次第に、大きな音になって響いて、自らの独房の前で、靴音が止まったときの気持ちは、いったい、いかなる状態なのか、、、。あるいは、死刑の執行を前日に知らされたとして、通知のあった夜、眠ることができるかどうか、、、そして、どのような想いが、頭のなかを走るのか、、、子どもの頃の想い出か、、、。

 ひょっとしたら、わたしの性質のなかには、「罪」 を犯す あやうさ が、潜んでいるのではないか。
 シオラン 氏 (哲学者) は、それを、以下のように、巧みに記述している──「自伝への題辞、すなわち私は罪という口実をもたぬ ラスコーリニコフ」。

 「歴史は、繰り返す」 という言いかたがありますが、歴史は、(時系列のなかで起こる 「できごと」 でなので、) 繰り返されることはない。歴史が繰り返されるように見えるのは、個々の 「できごと」 に関与している人たちが、「主観 (知・情・意)」 のなかで、行為を選ぶので、「主観」 を超えることができない、ということでしょう──すなわち、だれがやっても、「主観」 のなかで選ぶのであれば、おおかた、同じ選びかたになる、ということでしょう。「だれがやっても、おおかた、同じ」 ということは、もし、大多数の人たちの 「主観(知・情・意)」 が、或る 1つのほうに向かって、1つの傾向として収斂したら、個々の メンバー (個人) としての性質とは違う 「集まり (群衆)」 としての性質を示すようです。「群衆 (集まり)」 の性質は、個々の メンバー の性質が集計された構成物ではないようです。「群衆 (集まり)」 の性質が顕示すればするほど、個々の メンバー の性質は消え去るようです。

 ナチ 親衛隊の 「ユダヤ 人狩り」 を逃れるために、町中を逃げ回っていた ユダヤ 人たちが、路地の塀の陰に隠れて、赤ん坊を抱いた母親は、赤ん坊が泣けば、ナチ に見つかって、仲間たちが殺されることを恐れて、授乳しながら、赤ん坊の顔を乳房に圧迫して窒息死させた。そのときの母親の気持ちは──我が子を、授乳しながら、殺しても、泣くことすらできない母親の気持ちは──、いかなる状態であったのか、、、。
 列車の長い旅を終えて──多くの人たちが、貨物車両のなかに、すし詰めに押し込まれ、小便や大便を、車両の片隅の床板で済まさなければならない状態が続いて──、終着駅 アウシュヴィッツ に到着したとき、シャワー を浴びるように指示されて、あたかも、大きな シャワー・ルーム のように装った部屋のなかに、裸になって入った後には、天井から流れ落ちてきた物が、水ではなくて、ガス だ、と気づいて、ガス を吸いながら、意識が薄れるなかで、いかなる思いを抱いて、人々は死んでいったのか、、、。「絶滅収容所」 では、労働力にならない子どもたちは、生きたまま、焼却炉に投げ込まれて殺された事態も起きた。焼却炉に投げ込まれた子どもたちは、全身に火炎を浴びながら、絶叫したかもしれない、、、。あるいは、森の中に遊びに連れ出されて、銃殺された子たちもいる。

 自らが置かれている状況にもかかわらず、自らの思考に照らして自らの行為を選ぶことができない、という状態のなかで、それでも、時が流れ続けて、「生きなければならない」 という意識、あるいは、「(自らの) 命の継続・抹殺を、ほかの人物が掌握している」 という意識を感じたときに、わたしたちは、どのような振る舞いを 「できる」 のでしょうか、、、。
 「絶滅収容所」 では、それぞれの個性は、認知番号を付与された 「個体」 にすぎなかった。そして、「計画的に抹殺される」 人数は、合計値 (帳尻) が守られていれば良いのであって、「個体」 の抹殺は、あくまで、数値としてしか、認識されていない。

 それらは、実際に起こった 「小さな歴史」 である。アウシュヴィッツ という狂った施設が、どうして、作られたのか、という点を調べるのが、「大きな歴史」 の研究であるとすれば、「大きな歴史」 のなかで、「one of them」 として消えて去った膨大な数の 「小さな歴史」 に対して、わたしは眼を向けたい。「小さな歴史」 は、一人の生涯として観れば、歴史のすべてなのだから。

 わたしは、「小さな歴史」 を 「文芸的に」 観ているのかもしれない。
 でも、それらは、ほかの人たちの身の上に、実際、起こった事実です。

 



[ 読みかた ] (2010年 4月16日)

 「『小さな歴史』 を 『文芸的に』 観ている」 と本 エッセー のなかで綴りましたが、「文芸的」 という意味は、「生活に即して」 (あるいは、「生活の文脈のなかで」) という意味です。言い換えれば、(小林秀雄氏の言を借りれば、)「特殊風景に対する誠実主義」 と云ってもいいでしょう──ここでいう 「特殊」 という意味は、「普通ではない」 という意味ではなくて、ロジック で云う 「単称」 (個々の具体的事象) という意味です。すなわち、「文芸的」 という意味は、「個々の具体的事象に即して」 という意味です。

 私は、システム・エンジニア を職としています。しかも、モデル を構成する仕事を専門にしています。モデル は、複数の事象のなかに存在する共通した性質を括って ひとつの クラス を定立して、そして、それぞれの クラス を なんらかの 「関係」 のなかに並べた構成物です。モデル では、「抽象化」 とか 「汎化」 とか 「関数」 という 「概念の演算」 が中核の技術です。そういう仕事では、「個々の事象」 に比べて、「法則」 が重視されるように思われがちですが──自然科学では、そうかもしれないのですが──事業過程を対象にした モデル では、モデル の正当性 (完全性) を証明するのは 「(事実的な) F-真」 です。つまり、モデル として記述された形式的構成は、最終的に、「事実」 と対比して、「真」 を問う、ということです。したがって、最終的には、モデル は、「特殊風景に対する誠実主義」 を堅持しています。こう言い換えてもいいかもしれない──モデルは、自然言語で記述されている 「単称」 的事態を 「形式化」 するのみであって、どのような 「形式的構成」 であっても、最終的に自然言語に翻訳されない構成は言語ではない、と。そして、もし、モデル が そういう性質であるならば、モデル を作る私が、個々の事象を 「文芸的」 に観ても矛盾しないでしょう。

 上述した モデル は、ロジック 上で正確に謂えば、「第一階」 (実 データ と、その集合) を前提にしています。そして、モデル は、さらに、階数を上げて抽象化することもできます──すなわち、第二階 (「関数」の関数)、第三階、・・・、というふうに。たとえば、第二階の演算になれば、実 データ (個々の事象) は、第二階の メンバー ではない──言い換えれば、第二階では、メンバー を直接に 「事実」 と対比できない。第二階では、形式的構成のなかで 「無矛盾性」 を実現できても、「完全性」 を 「直接に」 証明することは難しい。でも、われわれが、「論説」 として事象を一般化して語るときには、すでに、第一階を離れているでしょう。そして、その 「論説」 が正しい (真である) ことを証明するためには、われわれが定立した 「概念」 のなかに、「真とされる値」 (すなわち、「例」) を代入することになるでしょう。

 「歴史」 の記述においては、個々の事象のあいだに存在すると考えられる関連を探る思惟──第一階での形式化──もあれば、それぞれの時代の特徴を探る思惟──高階での抽象化──もありますが、私は、個々の事象の関連 (理由-影響) に対して興味を抱いても、「時代の特徴 (風景)」 には、さほど、興味がない。「歴史」 を読むときに、私の頭のどこかで (時代的風景の眺望を嫌って) 「当事者意識」 が強く作用するようです。そして、それが、「歴史」 を 「文芸的に」 読む傾向になっているのかもしれない。





  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り