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A guilty conscience needs no accuser. (English Proverb)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション conscience のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Conscience, I say, not thine own, but of the
    other: for why is my liberty judged of
    another man's conscience?

    Bible: T Corinthians
    10:29    

 
    Conscience is the inner voice that warns us
    somebody may be looking.

    H.L. Mencken (1880-1956) US journalist.
    A Menchen Chrestomathy

 
 Conscience の意味は、an inner sense of what is right and wrong で、日本語では 「良心」 と訳されています。

 さて、一番目の引用文は 「聖書」 の 「コリント の使徒への手紙」 から抜萃された文ですが、文脈を知らないと考え違いしそうな文です。この引用文の前文をふくめて、現代口語訳を次に記載します (「新約聖書」、新共同訳、日本聖書協会)。

     28  But if someone tells you, "This food
    was offered to idols," then do not eat that
    food, for the sake of the one who told you
    and for consciece' sake──

     29  that is, not your own conscience,
    but the other person's conscience.

       "Well, then," someone asks, "why
    should my freedom to act be limited by
    another person's conscience?

     30  If I thank God for my food, why
    should anyone criticize me about food for
    which I give thanks?"

     31  Well, whatever you do, whether
    you eat or drink, do it all for God's glory.

 聖書では、conscience の規範として God が置かれています。God の存在証明をここで論ずるつもりは私にはないのですが──かの天才 ゲーデル 氏は God の存在証明を試みたのですが [ その証明式は間違っていたことが後日に明らかにされたのですが ]──、西洋では conscience の規範として聖書が使われて来たことは歴史的事実です。したがって、God について語るなら聖書を読まなければならない──God は聖書の中に存在する。聖書を読んでいない人が 「神など信じない」 (あるいは、「無神論者である」) と言っても私は聞き捨てにするしかない。ちなみに、私は キリスト 教徒ではない、「禅」 を信奉している (出家する覚悟のない) 在家です。God とは、私には、数学で云う 「不動点 [ f (x) = x ] 」のように思われます。聖書に対する私の所感は、「反 コンピュータ的断章」 の中で かつて綴ったので、ここでは もうこれ以上のことを綴るのは止めます。私が本 エッセー で論点にしたいのは、conscience を判断するために如何なる手本 (典則) を我々は持っているのかという点です。

 その手本を 「道徳」 に置いているのが二番目の引用文です。しかし、「道徳」 を定義するのも (God の存在証明と同じように) 難しい──古来、数多くの英才が論じて来て、様々な論が立てられています。日本では、神道と仏教と儒教が底辺になっていると云われています──私は、本居宣長、道元禅師、荻生徂徠を読んできましたが、それぞれに惹かれる。そういう様々な見識が混和して 「社会慣習」 のひとつとして形成された手本 (規範) が 「常識」 なのかもしれない。

 Conscience とは、興味深いことに、そのもの自体を直に意識できるのではなくて、呵責を感じた時に はじめて意識される反証的性質のようですね。こういう考察は、「エチカ (Ethica)」 (スピノザ 著) に示されています──私は、「エチカ」 の全体感 [ 「神即自然」 という汎神論 ] を共感していますが、その論証法 [ 幾何学に倣って、少数の定義・公理を出発点にして 「精神状態」 を演繹的に論証する やりかた ] を嫌悪しています。いっぽうで、敬虔な・ethical な スピノザ の精神に対して私は敬意を払っています。

 社会的規則は法令として明文化されていますが──それでも、法令の文言には 「解釈」 の余地が生ずるのですが──、法令として明文化されていない 「道徳」 も存するし [ Even when there is no law, there is conscience. (Publilius Syrus) ]、「道徳」 と一致する行為を列挙した表 (a list of instructions) が我々の脳髄の中に存する訳じゃないでしょう。こんなことを考えていると、辣韮 (らっきょう) の皮剥き状態に陥ってしまう。「x に反した時に呵責を感じる」 という文の中で、x として如何なる規範を立てるかは、時代的伝統や社会的慣習や個人的人生観などが混ざっているので、一意の値を入れられないでしょう。しかし、それを一意にしているのが聖書 (God の存在) です。したがって、聖書を無視できない。

 Conscience について色々と思いを巡らして私が辿り着いた底辺 (at bottom) は、「嘘をつくな」 という単純な品行です──虚構 (無いものを有ると云うこと)・隠蔽 (有るものを無いと云うこと)・改竄を為すな、と。私が子どもの頃に両親が私に躾けた単純な品行です。偽り [ 偽証 ] には疚 (やま) しさが付き纏う──そして、我々は嘘を [ 幾度か ] ついて疚しさの苦みを味わって conscience を意識するのでしょうね。ちなみに、西洋でも嘘 (a lie) は (日本人が想像する以上に) 強い意味だそうです。ここまで私の心に浮かぶ思いに任せて文を綴って来て、今ふと、ドストエフスキー が 「悪霊」 の中で綴っている次の文を思い出しました。

    人生においてなによりもむずかしいことは──
    嘘をつかずに生きることである・・・そして
    自分自身の嘘を信じないことである。

 
 (2012年 1月23日)

 

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