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A sight to dream of, not to tell! (Samuel Taylor Coleridge)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション desire のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Appetite comes with eating.

    Francois Rebelais (1463-1553) French satirist.
    Gargantua, Bk. I, Ch. 5

 
    There are two tragedies in life. One is to lose
    your heart's desire. The other is to gain it.

    George Bernard Shaw (1856-1950) Irish dramatist and critic.
    Man and Superman, W

 
 一番目の引用文の意味は、「食べれば食欲は出て来る」 ということ。その逆は、「食わず嫌い」 か。「反 コンピュータ 的断章」 で以前に引用した次の文も類例でしょうね──There is no such thing on earth as an uninteresting subject; the only thing that can exist is an uninterested person (G. K. Chesterton). 私の事を言えば、「数学基礎論」 が まさに 食べているうちに食欲が増進した例です。私は、高校生の頃に数学が苦手で──試験の点数が 100点満点中 6点という惨めな状態にあったので──いわゆる 「文系」 を選んだのですが、30才の頃に、コッド 関係 モデル を読まなければならない仕事に就いて、数学を改めて学習しなければならなくなった次第です。それまで数学を正規に学習していなかった 「文学青年」 が数学を独学しなければならなかったために、数学を再学習し始めた時にやらかした ドジ については、以前に、本 ホームページ で綴っています。私は、仕事柄、数学をやらざるを得なかった──学習するかしないかという様な選択の余地は一切ない状態に追い込まれていたのです。数学ができなければ仕事ができないという状態に追い込まれていたので、死に物狂いで学習しました。私が数学のどういう書物を読んで学習したかは、本 ホームページ の 「読書案内」 をご覧いただければわかるでしょうし、私の数学の才識がどの程度のものかは──私は システム・エンジニア であって、数学者ではないので──、拙著 「モデル へのいざない」 (と 「論理 データベース 論考」 の理論編) を読んでいただければ明らかでしょう。それらの著作で記述されている知識は、数学者の眼から観れば、たあいもない基礎知識ですが、(事業分析の モデル 技術を作る) システム・エンジニア としては、あのくらいの知識で充分だと思っています。私の主眼は、モデル 論を いかにして単純な技術として調えるかという事だったのだから。私が、(数学基礎論の学習を続けて来て) 今、師と仰いでいる人物は──書物でしか知らないのですが──、田中一之氏と本橋信義氏です。私のような数学の シロート でも、数学をやっているうちに、数学好きになったとは言い難いのですが、それなりの興味を抱いた事は確かです。

 二番目の引用文の意味は、「人生の悲劇の一つは、desire を失う事。そして、もう一つは、それを満たしてしまう事」。普段の生活の中で、望みを失った (断たれた) 時の絶望感や望みを実現した時の虚脱感を誰もが幾度かは体験しているでしょう。そして、望みを実現しようと頑張っている時に生き生きしている事も体験しているでしょう。バーナード・ショー 氏は、それを絶妙に言い切っている。同じ事を キーツ 氏 (詩人) は、次の様に綴っています──「人生は バラ の花の希望だ、ただし咲かない間だけの」 (言い替えてみれば、人生は バラ の花の希望だ。人生の悲劇の一つは、希望を失う事 [ 持っていない事 ]。そして、もう一つは、それを満たしてしまう事)。こういう論法の準同型として、私は、ホフマンスタール 氏の次の ことば も思い出しました──「『経験』 については二種類の不愉快なひとびとがある。経験のないひとびとと、経験をあまりに自慢するひとびと」。小林秀雄氏の 「パスカル の 『パンセ』 について」 の中に次の文が綴られています。

    「無限に比べれば虚無、虚無に比べれば一切、無と一切との
    中間物」、「僕等は何も確実には知り得ないが、又、全く無智
    でもあり得ない。僕等は、渺茫 (べうばう) たる中間に漂つて
    ゐる」。これが、パスカル の見た疑ひ様のない 『人間の真実な
    状態』 であり、人生はさういふ システムとして理解されなけれ
    ば、それは誤解であり、さういふ実在として知覚されなければ、
    錯覚である。僕は、パスカル を独断家とも懐疑派とも思はない。
    彼は、及び難く正直であり大胆であるに過ぎない。

    「一方の極端まで達したところで何も偉い事はない、同時に
    両極端に触れて、その間を満たさなければ」。彼は、さういふ
    風に生き、さういふ風に考へ、さういふ風に書いた。そして
    書き方についてかう書いた、「僕は、ここに自分の思想を無秩序
    に、だが、恐らく意図のない混乱の形ではなく書かうと思ふ。
    これが真の秩序である」

 確かに、私たちは、「渺茫 (べうばう) たる中間に漂つてゐる」。
 パスカル は 「パンセ」 の中で次の文を綴っています。

    自分は、長い年月を、数学の研究に費やした。──人間の
    研究を始めた時、数学が人間に適してゐない事に気付いて、
    数学を知らない人々より、数学に深入りした私の方が、遙か
    に自分の状態について迷つてゐる事を覚つた。

 これを数学に対する非難だと思うのは間違いでしょうね。「両極端に触れて、その間を満たさなければ」 という意味を考えてみればいい。数学に深入りして、「渺茫 (べうばう) たる中間に漂つてゐる」 じぶんを意識せざるを得なかったのでしょう。だから、パスカル は次の文を綴っています。

    彼が、己れを高くしたら、僕は、彼を卑下させる。自ら卑下した
    ら、高めてやる。彼が、己れを不可解な怪物と認めるまで
    いつでも彼に、抗言してやる。
    (赤字は私 [ 佐藤正美 ] が注意を促すために施しました。)

 彼は、「確立された 『自分』」 (あるいは、今風に云えば 「自分探し」) などというものを信じてはいなかった。知れば識るほどわからなくなるというのが彼の実感でしょうね。識ったと思い込んだら、考えることなどしないでしょう。だから、識っている事を疑って考えざるを得ない。その 「考える」 事が停止するのが、バーナード・ショー 氏の言う悲劇 (の 2つ──One is to lose your heart's desire. The other is to gain it──) の状態でしょうね。

    旅に病み夢は枯野をかけ廻る (芭蕉)

 この辞世句には、漂泊の中での執着 (意欲) を私は感じます──目的地などは きっと 存しないのでしょう、旅そのものが生きている証しなのかもしれない。我々凡人でも、人生の旅人であるという意味では、仕事には そういうふうに望み得るもの (desire) を持っていたいですね、つねに考えて工夫し続けたい。

 
 (2012年 7月16日)

 

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