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...whose minds do not function and who no longer have the truth. (1 Timothy 6-5)

 



 三島由紀夫氏は、「音楽 (クラシック 音楽)」 を 「享楽することができない」 と告白しています (「小説家の休暇」 六月二十九日の エッセー)。かれの綴った文を以下に引用します。

     理智と官能との渾然たる境地にあつて、音楽をたのしむ人は、
    私にはうらやましく思はれる。音楽会へ行つても、私はほとんど
    音楽を享楽することができない。意味内容のないことの不安に
    耐へられないのだ。(略)

     音楽といふものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、
    戯れてゐるもののやうに私には思はれる。かういふ恐ろしい戯れ
    を生活の愉楽にかぞへ、音楽会や美しい客間で、音楽に耳を傾け
    てゐる人たちを見ると、私はさういふ人たちの豪胆さにおどらかず
    にはゐられない。
     音といふ形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの
    音楽なるものは、何か人間に捕へられ檻に入れられた幽霊と
    謂った、ものすごい印象を私に惹き起す。音楽愛好家たちが、
    かうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡明に
    信じ、安心してその勝利に身をゆだね、喝采してゐる点では、
    檻のなかの猛獣の演技に拍手を送る サーカス の観客とかはり
    がない。しかしもし檻が破れたらどうするのだ。勝つてゐると
    みえた精神がもし敗北してゐたとしたら、どうすのだ。音楽会の
    客と、サーカス の客との相違は、後者が万が一にも檻の破ら
    れる危険を考へてもみないところにある。(略)

     作曲家の精神が、もし敗北してゐると仮定する。その瞬間に
    音楽は有毒な恐ろしいものになり、毒 ガス のやうな致死の
    効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇
    で、十重廿重にかこんでしまふ。聴衆は自らそれと知らずに、
    深淵につきおとされる。・・・・・・

     ところで私は、いつも制作に疲れてゐるから、かういふ深淵
    と相渉るやうなたのしみを求めない。音楽に対する私の要請は、
    官能的な豚に私をしてくれ、といふことに尽きる。だから私は
    食事の喧騒のあひだを流れる浅墓な音楽や、尻振り踊りを
    伴奏する中南米の音楽をしか愛さないのである。

 かれは、そう綴りながらも、いっぽうで、オペラ を幾度も観ています (笑)──たとえば、かれの日記風随筆集 「裸体と衣裳」 の八月十六日付けの エッセー で、「アイーダ」 を五回観たことを記して、観劇の感想を綴っています。かれが オペラ に対して抵抗のない理由は、たぶん、かれの得意とする演劇に似ているからかもしれない。

 さて、かれの記した 「作曲家の精神が、もし敗北していたら」 という仮設は、あながち、無意味な問いでないかもしれない。たとえば、シューマン は実際に精神を患ってしまったのですが、もし、そういう事実を知らなかったとしても、シューマン の交響曲を聴けば、豊饒な音の厚みにもかかわらず、なにかしら、危殆に瀕する品 (しな) を感じます。シューベルト や マーラー も、たぶん、そうでしょうね。チャイコフスキー も、そうかもしれない。ひょっとしたら、モーツァルト も、そうなのかもしれない。逆に言えば、そういう状態を免れているのは、ベートーヴェン、メンデルスゾーン と ワーグナー のような少数の作曲家かもしれない。ブラームス は、深淵を覗いたあとで俗に帰還する平衡感覚を持っていたのかもしれない [ ブラームス は、舞曲や ウィンナー・ワルツ を好きだったそうです ]。

 夜中に、静かな部屋で、モーツァルト や シューベルト を聴いていると、「私なんか、この世の中にいないほうがいいのかもしれない」 という・言い知れぬ悲哀感に襲われるときがあります──この情感は、たぶん、虚無感ではない。「いないほうがいい」 という・みずからの存在を無価値と感じる感覚は虚無感に近いのですが、それよりも寧ろ、情感のいちぶが肥大して溢れて身体を溶かしてしまった状態と云ったほうがいいのかもしれない。だから、「意識 (自意識)」 という強烈な自我が確実に存在していますが、精神は まるで 音楽の反響箱のように、暗夜のなかで たゆたう状態です。喩えてみれば、肉体が海に浮かんで波に たゆたう快感に近いのですが、もし溺れたら、海の底には死が口を開いて待っている状態でしょうね。こういう状態が、たぶん、三島氏の云う 「深淵と相渉るやうな たのしみ」 なのかもしれない。こういう状態ばかりが続けば、「自意識 [ 精神ではない ] 」 は、いよいよ深淵を もっと奥まで覗きたがって、深淵の隘路にはまって 身うごきができなくなって いずれ破綻するでしょうね。私は、幸いにも、歌謡曲、グループサウンズ、フォークソング や昔の テレビ 主題歌も好きなので、「深淵と相渉るような たのしみ」 を味わったあとで、ふだんの俗な生活にもどって、俗な歌を唄う平衡感覚を喪ってはいない。

 
 (2009年 5月23日)


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