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... and on this rock foundation I will build my church,... (Matthew 16-18)

 



 小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 U」 のなかで、三木清氏が示した 「芸術的批評の立場はまた社会的に批評されねばならぬ」 という説に対して反論を綴って──かれの反論を、「反文芸的断章」 で、いままで 4回に分けて [ 2009年の 11月23日、12月 1日、12月 8日および 12月16日 の エッセー で ] 検討してきましたが、今回は、その最終章です。まず、小林氏の言を引用します。

    三木氏もこういう困難を少しは、意識して、社会的批評と
    芸術的批評との妥協案を述べている。人々は一応は肯
    (うなず) くであろう。そしてだがこんな理屈が作家や批評
    家に何んの益を齎 (もたら) すだろうと考え込むだろう。
    一般理論を具体化し特殊化する事が、マルクス主義芸術論
    の目下の急務である、と。そして文学の大衆性の理論を、
    プロレタリヤ・リアリズム の理論を製造するのはよろしい。
    だがこの具体化が、特殊化が、遂 (つい) に個人の鑑賞
    情熱の理論という困難に坐礁 (ざしょう) しなければ幸い
    である。プロレタリヤ・リアリズム とは、現象と イデオロギイ
    との弁証法的綜合的 コンポジション なんだそうである。
    でなけりゃ昔の単なる リアリズム なんだそうである。これ
    で何んの事か解ったという奴がいたらお目にかからない。
    こんな事を平気でいう学者が、フロオベル の 「ブウヴァル
    と ペキュシェ」 という ブルジョア・リアリズム 小説の中で
    出て来るから読んで御覧になるといい。

    社会の或る事情が商品という物質をこの世に送り出すよう
    に、文学作品というものも、ある人間の自然過程に依って
    この世に送り出された、言葉という、単なる物質である事
    聊 (いささ) かも変りはない。単なる商品が意味をもたぬ
    ように単なる言葉は意味をもたぬ。人がこれらに交渉する
    ところに意味を生ずる。商品が人間の交渉によって帯びる
    魔術性は、言葉が人間の交渉によって帯びる魔術性に比べ
    たら凡そ比較を絶するほど単純であろう。近世唯物論は
    多くの功績を齎した、だがそれは言葉の正体に関して未だ
    一指も触れていないという事実を人々は逆上しないで腹に
    入れとかなくてはいけないのだ。

    人間の意識を規定するものは全自然である。だが変化する
    全自然に対して人の意識が種々な形を呈するのは正に社会
    の事情に依る以上、人間の意識を決定する最後のものとして
    社会を取らねばならないであろう。この原則は正しい。しかし
    次の原則も作家の信ずべき原則として正しい、──作品を
    規定するものは社会である。だが、変化する社会に対して
    作品が様々な形を呈するのには正に作家の制作過程に依る
    以上、作品を決定する最後のものとして作家の制作過程を
    取らねばならぬだろう、と。批評家がまたこの作家の信ず
    べき原則を信じていけない理由は一つもないのだ。

    マルクス 主義芸術論は目下のところ立派な芸術理論を
    持っていない、しかし今日に至るまで音楽理論、絵画理論
    に匹敵するほど立派な文学理論というものは一つもない
    のである。これは文学を文学の立場から批評することが
    間違っているがためでは断じてないのである。文学という
    ものがこの世に姿を現すのに、人の思惟活動と同様に、
    言葉という複雑豊富な記号を材料として持たねばならぬと
    いう困難な事情に依るのだ。この困難な事情の故に批評
    家は文学を文学の立場から批評する事から顔をそむけて
    はならないのである。

 「アシル と亀の子 U」 のなかで三木清氏に対して出された 小林秀雄氏の 「質問」 において──「質問」 という形をとって、小林氏が じぶんの意見を述べた理由は、三木氏の説において 「多くの困難な事実が踏み躙られている」 ためで、それらの 「事実」 を小林氏は提示して、「三木氏が機会があったら明瞭に答えてほしい」 と綴っていて──、小林氏の主張は、前回の 「反文芸的断章」 で示した点に尽きるでしょう。そして、本 エッセー で引用した小林氏の文は、前回の 「反文芸的断章」 で記載した かれの意見を 要約して批評を締めるために綴られた文でしょうね。

 以下の 「事実」 を再確認してみましょう。

 (1) 文学作品は、語-言語 で構成される。
 (2) 語-言語は、社会のなかで疎通している。
 (3) 作家は、語-言語を使って作品を構成する。
 (4) 作家は、社会のなかで生活している。

 これらの 「事実」 を前提にして、「作品に対する芸術的批評は社会的批評に至らなければならない」 という公式は導かれないでしょう──というのは、作家が社会の構成員である (作家 ∈ 社会) である、という事実は、作家の性質が社会の性質を継承しなければならないということにならないから。もし、作家が社会の性質を継承しなければならないとすれば、作家に限らず、社会の構成員である人びと すべて がそうでなければならないし、そもそも、或る集合の構成員が その集合の性質を継承しなければならないという考えかたは、ロジック 上、集合的性質と周延的性質を混同した 「解体の虚偽」 です。作家が作家たる所以は、作品を制作したという事実に依っていて、しかも、作品を制作するという行為 (あるいは、制作過程の わざ) は、作家ですら プロセス を指示できないでしょう──もし、制作過程の プロセス を指示できるのであれば、私のような エンジニア にでも、その制作過程を アルゴリズム として構成して、文学作品を 「機械的に」 制作できるでしょう。

 しかも、単語を入力して文を出力する ひとつの関数 (システム) を考えたとしても、単語を いくつか入力して、それらの単語の組──ただし、文法上、妥当な構成になっている組──を いくつも構成できるし、実際の社会で疎通している単語の組は、語-言語が使われるようになった当初から現代に至るまで、「同じ文」が──ここで云う文は、ひとつの文ではなくて、段落くらいの単位を考えていますが──ひとつとして存在しないという事実を考えてみればいいでしょう。そして、その事実は、文学作品ではなくて、日常生活で使う語-言語で起こっている事実です。しかも、文学作品では──たとえば、詩において──、小林秀雄氏の言を借りれば、「ふたつの公共性 (言葉の実践的公共性と論理の公共性) を拒絶する事が詩人の実践の前提となる」 のです。そういう文学作品に対して、前述した アルゴリズム など構成できないでしょう。

 その システム は、作家の頭 (あるいは、指) で起こっている現象であって、その現象を いくつかの プロセス として切断できない。その システム こそが、制作過程そのものです。

 小林秀雄氏は、「様々なる意匠」 のなかで以下の文を綴っています。

    人は目覚めて夢の愚を笑う、だが、夢は夢独特の影像をもって
    真実だ。(略) 言葉もまた各自の陰翳を有する各自の外貌を
    もって無限である。虚言も虚言なる現象において何らの錯誤
    も含んでいないのだ。「人間喜劇」 を書こうとした バルザック
    の目に、恐らく最も驚くべきものと見えた事は、人の世が
    各々異なった無限なる外貌をもって、あるがままであるという
    事であったのだ。彼には、あらゆるものが神秘であるという
    事と、あらゆるものが明瞭であるという事とは二つの事では
    ないのである。如何なる理論も自然の皮膚に最も瑣細 (ささい)
    な傷すらつける事は不可能であるし、また、彼の眼にとって、
    自然の皮膚の下に何物かを探らんとする事は愚劣な事で
    あったのだ。

 この文は、文学作品の──あるいは、文学が存在しうる──理由を的確に述べていると私には思われます。「様々なる意匠」 のなかで、小林氏は、以下の・寸鉄人を殺す文を綴っています。

    スタンダアル はこの世から借用したものを、この世に返却した
    に過ぎない。

 「この世から借用したものを、この世に返却した」 という行為は、作家の制作過程そのものを示しているのですが、その制作過程は、たしかに、入力と出力とのあいだに存在する なんらかの目的関数ではあるけれど、その目的関数に対する制約関数が 「社会構造」 であるという 「証明」 が示されないのであれば、制作過程には社会的構造の制約が存在すると帰結できないでしょう。「社会」 が 「前提」 であるというのは正しい。しかし、「社会」 という概念に対する 「解釈」 が様々に提示できるかぎりにおいて、「社会」 を 「前提」 に置いても、様々な系を構成できるでしょう。「社会」 という概念は、人々の集まりのなかに、なんらかの 「関係」 を適用した構成物であるという意味以上の意味はないはずです──たとえば、家族・村落・会社・階級・国家などの形態のことでしょう。

 ひとつの行為を その構成要件 (必要十分条件) で考えようとすることを私は じぶんの職 (エンジニア) の前提にしているので否定しないけれど、少なくとも、文学作品では、「社会」 を前提に置いて、「芸術的批評 → 社会的批評」 とするような出鱈目な推論に対して私は怒りを覚えます。もし、そういう推論を 「科学的」 だというのであれば、その推論の前提になっている 「社会」 を 「形式的に」 構成してみてください [ 毛頭、構成できないでしょう ]。そして、それが構成できないかぎりにおいて──したがって、「社会」 を作品 (あるいは、制作過程) に対応できないかぎりにおいて──、その推論は成立しないにもかかわらず、それが成立するというふうな前提を平然と置いている態度を 「ナマっている (鈍っている)」 とか 「呑気な学者根性」 として小林秀雄氏は非難しているのです。

 そして、次のことも指摘しておいていいでしょう──ひとは、「社会」 を 「社会学的に」 観ることもできるし、「文学的に」 観ることもできる、と。「文学的」 って、どういう意味かって? 試しに、ドストエフスキー の諸作品や志賀直哉の諸作品を読んでみてください。小林秀雄氏の謂う 「作品を規定するものは社会である。だが、変化する社会に対して作品が様々な形を呈するのには正に作家の制作過程に依る以上、作品を決定する最後のものとして作家の制作過程を取らねばならぬだろう」 ということを実感できるでしょう。

 作家は、「社会」 を 「社会的制約」 の肩越しに眺めている訳じゃない。私は、「プロレタリヤ 文学」 の存在を否定しないけれど、それだけが文学とみなされることを嫌っていますし、もっと一般的に謂っても、「芸術的批評は社会的批評にまで至らなければ、印象批評に陥る」 という ちんぷんかんぷんな推論を呆れている、ということです。
 以下の言も、文学の ひとつの 在りかた を示しているでしょう。

    生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。
    (三島由紀夫)

 「金閣寺」 (三島由紀夫) という モデル 小説は、「現実的社会から隔絶された青年僧の孤独感──あるいは、社会的疎外感のなかで育まれた美意識」 を描いているとでも評すれば、印象批評に陥っていないということかしら、、、。金閣寺の放火事件を題材にして、主人公の青年僧が金閣寺を燃やさねばならなかった理由を作家が追究して、終 (つい) には、「それを独占したい」 という理由を 「導入」 したとき、批評家は、印象批評に陥らないために、いったい、どういう 「社会的批評」 に至らなければならないのかしら、、、。

 
 (2009年12月23日)


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