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To have faith is ... to be certain of things we cannot see. (Hebrews 11-1)

 



 小林秀雄氏は、「物質への情熱」 のなかで、片岡鉄兵氏の作品 「一つの性格」 に対して、「ここには一見いわゆる知識階級人の悲劇が描かれていると見えるが、これは少しも噛みしめられた悲劇ではない」 と評しています。「一つの性格」 の話の筋を小林秀雄氏は、以下のようにまとめています。

     彼は社会に対する漠然たる正義感のために、ただそのために
    女を捨てる。女は捨てられて初めて惚れていた事に気がついて、
    短い切ない手紙をかく。男は漠然たる正義感によってこの手紙を
    握り潰す。女は怒らないで彼を憐み、今度は彼を憐む短い手紙を
    よこす。彼の漠然たる正義感ははじめてほっとして、御説御尤も
    と正直な返事を今度は書く。この時、男は女が返事をよこしたら、
    あの 「女は台なしになってしまう」 と思う。これは生き生きとした
    文句である。だが男にはこの生き生きとした想いをこれ以上追い
    進める勇気がない。彼は直ぐに硬直して口をつぐむ。もしこの
    台なしになるという想いを突き進めたならば、この男はこの作
    にかかれた男とは別人になってしまうであろう。だがこれはどう
    でもよい、しかしこの作で硬直してないはずの女までが、男の
    硬直の傍杖 (そばづえ) をくらっているように思われるのは
    どうした事であろう。嘘から出たまことで男を愛するようになった
    次第を、また男を憐れむようになった次第はこの作には一言も
    書かれていない。悲劇は女の方にあるのだ。作者はこの悲劇を
    はぶいた。氏の巧妙な技巧は見るも邪慳 (じゃけん) に女の
    秘密を削除した。技巧は曲者の感なきを得ない。

 この筋書きは、当時 (1930年代) の社会情勢のなかでなら──いわゆる 「プロレタリア 運動」 が華やかしき最中においてなら──「起こり得る」 恋愛形態かもしれないけれど、現代では 「起こり得ない」 でしょうね。現代なら、たとえば、「正義感」 を 「出世欲 (あるいは、野望」) に置き換えたら、類似の 「硬直した」小説みたいな (stereotyped な) 物──あるいは、テレビ 番組の シナリオ──を綴ることはできるでしょう (笑)。

 さて、私は、小林秀雄氏が筋書きのあとに綴った以下の文が とても気になりました。

     この男の頑固な良心的一概念、なるほど、この男のように必死
    に守れば概念も悲劇性を帯びるであろうが、概念はあくまでも
    概念だ。この一概念のために人間性を捨てて乾涸 (ひから) びる
    とは悲しい事だ。(略) この女の演ずる悲劇は、男の演ずる悲劇
    にくらべて遥かに豊かな、危い現実を孕 (はら) んでいるはず
    だし、この女の顔を掴むためには遥かに、透徹した眼力を要する
    という事だ。

 私が気になった点は、ふたつあって、一つは、「一概念のために人間性を捨てて乾涸びるとは悲しい事だ」 という点で、もう一つは、「この女の顔を掴むためには遥かに透徹した眼力を要するという事だ」。

 「一概念のために人間性を捨てて乾涸びる」 という現象は、片岡氏の小説で描かれているように、ひとつの主義を盲信しているひとが陥る罠ですが、ほかにも、専門家と称されるひとが往々にして陥りやすい状態でしょう。勿論、専門家として、なにがしかの物を作る仕事では、「作る」 という意味において──あるいは、「産む」 という意味において──、なんらかの エロス [ プラトン 的 エロス ] が、必ず、そのひとの雰囲気のなかに燻 (くゆ) り立つはずですが、それを感じられない状態が 「乾涸びた状態」 でしょうね──ふつうの言いかたなら、学習すればするほど 「つまらない」 人物になって 「魅力がない (あるいは、艶がない、色気がない)」 と云うこと。ところが、その状態を 「客観的である」 と糊塗 (こと) するに至れば始末が悪い。「魅力 (艶、色気)」 というのは、たぶん、咀嚼された教養が滲みでた状態なのではないかしら。そして、「概念」 のみなら辞典類のなかに たんと収められているでしょう。

 「この女の顔を掴むためには遥かに透徹した眼力を要するという事だ」 において、「眼力」 とは、「反 コンピュータ 的断章」 (2010年 7月23日付) でも述べた 「眼力」 と同じだと思っていいでしょう。したがって、ここでは、その 「眼力」 の説明を割愛します。

 われわれ職業人は、できうるなら、専門家 (熟練者) にならなければ、職業において、じぶんの存在理由を手応えとして実感できないでしょう。どんな職業でもいいのであって──たとえば、経営 (マネジメント) の プロフェッショナル でもいいし、エンジニア の プロフェッショナル でもいいし、作家の プロフェッショナル でもいいのですが──、30年・40年を徹して熟練したひとこそ、私は信用できるひとだと思っています。その長い過程のなかで、更なる一歩を進めようと仕事に専念しているうちに、そのひとの感性が研ぎ澄まされ、知識を噛みしめた知性が滲み出て、たとえ、そのひとが黙っていても、「存在感 (presence)」 がでるのではないでしょうか。そして、「当然ながら」、そういう状態にあるひとは、醜悪な (あるいは、俗な) 物を拒絶するでしょう。なぜなら、エロス は 「うくつしい」 物を産むことと同値だから。そして、エロス には、なにがしかの 「悲劇 (危うさ)」 が付帯するようです。

 
 (2010年 7月23日)


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