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Those who love their own life will lose it,... (John 12-25)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

     人は愛も幸福も、いや嫌悪すら不幸すら自分独りで所有する
    ことは出来ない。みんな相手と半分ずつ分け合う食べ物だ。その
    限り俺たちはこれらのものをどれも判然とは知っていない。俺の
    努めるのは、ありのままな自分を告白するという一事である。
    ありのままな自分、俺はもうこの奇怪な言葉を疑ってはいない。
    人は告白する相手が見つからない時だけ、この言葉について思い
    患う。困難は聞いてくれる友を見つける事だ。だがこの実際上の
    困難が、悪夢とみえるほど大きいのだ。誰も彼もが他人の言葉に
    は横を向いている。迂闊 (うかつ) だからではない、他人から加え
    られた意見を、そのまま土台とした意見を捨てきれないからだ、
    土台としたために無意味なほど頑固になった意見を捨てきれない
    でいるからだ。誰も彼もがお互いに警戒し合っている、騙 (だま)
    されまいとしては騙し合っている。

     俺が生きるために必要なものはもう俺自身ではない、欲しい
    ものはただ俺が俺自身を見失わないように俺に話しかけてくれる
    人間と、俺のために多少はきいてくれる人間だ。

 上に引用した文は、前回の 「反文芸的断章」 で引用した文と同じ中身であって、相違点は、前回が 「じぶんと社会」 との関係を確認していて──社会のなかで現れては消えてゆく 「様々な意匠」 に対して じぶんが荷担していないことを確認していて──今回の文が 「じぶんを告白する」 ことこそ──そして、じぶんを見失わないように じぶんに語りかけてくれるひとが存在して欲しいこと──を述べている点でしょうね。

 小林秀雄氏が述べた告白を、私 (佐藤正美) は 40歳以後の生活のなかで実感しています。「歓びや悲しみを分かちあう友を持て」 というような陳腐な (same old) 「人生訓」 を ここで引きあいにだすつもりは、私には更々ない──他人 (ひと) の言を多量に取り込んで、それらを適宜 retrieve するだけの [ しかも、じぶんの脳内に取り入れたがために、じぶんの意見だと思い込んでいる ] 機械的人間を小林秀雄氏は次のように非難しています。

    他人から加えられた意見を、土台としたために無意味なほど頑固
    になった意見を捨てきれないでいるからだ。誰も彼もがお互いに
    警戒し合っている、騙 (だま) されまいとしては騙し合っている。

 この点 (「公式主義」) に関しては、「反文芸的断章」 のなかで私は幾度も非難してきたので、ここでくり返して述べることを止めますが、その罠に陥っていながら、いっぽうで 「個性」 を謳っている人たち (思考できない ロボット) が わんさといる。そういう人たちを私は観てきて、私が ウンザリ していることだけは再述しておきます。社会から遮断された 「個性」 などは存在しないでしょう──もし、じぶんで じぶんの性質を思いめぐらして 「個性」 を論じているのであれば、妄想にすぎない。妄想と謂うのが言い過ぎであれば、社会のなかで 「証明されていない」 ちから などは己惚れにすぎないと言い替えてもいい。

 「俺が生きるために必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わないように俺に話しかけてくれる人間と、俺のために多少はきいてくれる人間だ」。そういう人間が妻・恋人・友になっているのでしょうね。ここで、ギットン 氏の ことば を思い出しました (「読書・思索・文章」)。

    初心者に有益な助言としては、次のように言いたい。「はじめは
    一人称で書きたまえ。『人々は』 というより、『私は』 というほう
    が、ずっと文章らしくなる。」 小説家でも、最初、全体を膨大な
    告白のように 『私』 形式で書き、それから三人称形式に書き
    直すことがある。おそらくこれは、『私』 ということばを用いると、
    いやでも内部へ入りやすくなるからであろう。

 そして、ギットン 氏は、かれの著作 「新しい思考術」 を、「イレーヌ」 という名の人物に向かって──「イレーヌ」 は、たぶん、若い女性と想像されますが、実存しない人物でしょうし、哲学の学習を進めている具体的な人物として思い描かれていて──語るような文体で執筆しています。「一人称」 の語りかけは、文章作成法の コツ でしょうね。ちなみに、本 ホームページ の 「問わず語り」 は、TH さん (私の大学時代の同級生、親友の一人) と喫茶店で話していることを思い描いて綴ってきました。そして、そういう文を綴っているとき、私は、安堵感を覚えます──「じぶんを見失わない」。「人は愛も幸福も、いや嫌悪すら不幸すら自分独りで所有することは出来ない。みんな相手と半分ずつ分け合う食べ物だ。その限り俺たちはこれらのものをどれも判然とは知っていない。俺の努めるのは、ありのままな自分を告白するという一事である」。そして、私は、本 ホームページ のなかで、じぶんを正直に晒してきたつもりです──文を公にするかぎりにおいて、文は幾何 (いくばく) かの装飾を免れないのですが、私は じぶんの思いを できるかぎり正直に綴ってきたつもりです。

 そういう 「告白」 を基調としている私の態度は、初対面の人たちの眼から観れば、往々にして、「苦労しらずの、御人好し (愚直?)」 な人物に写るようです (苦笑)──私の面前で、そう言った人たちが数人いました [ 余計な御世話だと思って私は不快感を覚えました ]。でも、私は、それほど迂闊な人物じゃない (笑)。「人物評」 は、余程のことがないかぎり、やらないほうがいい。なぜなら、じぶんのことを じぶんですらわかっていないのに、他人のことなどわかる訳もない。どうせ、「誰も彼もがお互いに警戒し合っている、騙されまいとしては騙し合っている」 のだから [ 私は、そういう人たちを わんさと観てきました ]。20年以上連れ添った夫婦でさえ、たがいに濃 (こま) やかに聞きあう関係であっても、いまだ未知なる better half なのだから。「愛」 は──勿論、夫婦愛に限らないで、恋愛や、親子の情愛などもふくんだ広い概念で私は考えていますが──、どうして 繰り返し論じられてきたのか。それは、じぶんを確認する [ 思い知らされる ] 場面だからでしょうね。

 
 (2011年 3月16日)


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