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What kind of words are these? (Luke 4-36)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。

     しかし結局のところ、普段つきあっている処に感ずる人間的
    魅力などというものは大したものではないかも知れぬ。つき
    合っている時には、妙に生き生きとしたあるものだが、つら
    つら想えば漠然とした、はかないもののような気もする。直木
    三十五氏が逝 (な) くなって、新聞雑誌に、氏の生前の思い出
    や逸話の類が充満した。氏の人間的魅力のしからしむるところ
    だろう。氏が大変魅力ある人物であったという世の定評を僕も
    信じているが、(略) 逝くなって作品の他なんにも残っていない
    今こそ、直木氏の真価が問われはじめる時であり、作家は仕事
    の他、結局救われる道はないものだ、という動かしがたい事実
    に想いをいたすべき時だ。ときっぱり言いたいが、こういう微妙
    な問題にはいろいろと疑いが湧き上って来ていけない。

 上の引用文は、「林房雄の 『青年』」 の初めのほうで綴られていて、「こういう微妙な問題にはいろいろと疑いが湧き上って来ていけない」 という所懐が、「林房雄の 『青年』」 の中で徹底的に分析されています──小林秀雄氏が分析の的 (まと) にしたのは、「作品と作家の人間的魅力」 (そして、そこから生ずる 「作品と生活」) の関係性です。

 さて、本 エッセー では、上の引用文に限って──その引用文に促されて──私が思い浮かべた所思を述べてみます。「人間的魅力」 については、「反 コンピュータ的断章」 で かつて綴っているのですが、「個性 (個人)」 と不離なので概括できないし、実際に相手と接して感じる他のない性質でしょう──そして、或る人物に対して多くの人たちが魅力を感じたとして、めいめいの人たちがそれぞれの雰囲気を感じて魅了されるのであって、かれらが抱く実感は様々でしょう [ 同じ感覚ではないでしょう ]。この現象は、書物を読んで感じた所懐と似ている。しかし、アラン 氏が言っているように、「眼の前にない物の外見を喚起する力などというものは、人のいうほど、また人の信じるほど、強いものではないこと、換言すれば、想像力はそれ自身の性質についてもわれわれを欺くものだということを、認めておくことである」 (「芸術論集」 第一巻 創造的想像力について、第一章 想像力)。だから、相手が作家であれば、「逝くなって作品の他なんにも残っていない今こそ、直木氏の真価が問われはじめる時であり、作家は仕事の他、結局救われる道はないものだ、という動かしがたい事実に想いをいたすべき」 だということになるのでしょうね。いっぽうで、生存している作家の作品を批評するのは──もし、批評家が作家と知己であれば──、その作家の人間性が介入してくるので、難しいとも言えるのでしょうね。だから、「こういう微妙な問題にはいろいろと疑いが湧き上って来ていけない」。

 「人間的魅力」 と 「作品」 との違いを 「時」 の流れの中で眺めてみれば、「人間的魅力」 は移ろうけれど、「作品」 は変わらないという点でしょうね──ただし、文字として遺された 「作品」 そのものは変わらないけれど、「作品」 に対する われわれの 「解釈」 は変わる。「形式」 は変わらないけれど、「意味」 は その時代の意向から生じてくるので変わりやすい──しかも、読み手ごとに様々な 「解釈」 をしている。そして、「人間的魅力」 に於いては、「形式 (外見)」 も時とともに変わる──小野小町がその例として 多々 言及されますね。小野小町に限らず、ことわざ にも 「駿馬も老いては駄馬に云々」 と云うので、才識とか魅力というのは儚 (はかな) い。その儚さを感じた時に、自分が為して成した事を綴って遺したくなるようですね──「自分史」 を綴りたい、と。おそらく、私が こういう エッセー を綴っている事も そうなのかもしれない。

 私は、過去 28年のあいだ セミナー 講師を務めて来ました。そして、過去 20年のあいだで 9冊の書物を書き著して来ました。その体験から学んだ訓戒は、「上手にしゃべることができても上手な文を綴ることはできないが、ちゃんとした文を綴ることができれば上手にしゃべることができる」 という関係性です。頭の中で考えていれば すぐれていると感じられた着想も、文として綴ってみれば論にならない・愚にもつかぬ 「脳髄の痿痺 (いひ)」 現象だったにすぎない事が多い。自分の想像しているほどには自分の脳味噌は賢くない事が文を綴れば つくづく思い知らされる。

 私の プレゼンテーションも拙文も 「マサミ 節」 というふうに称されていますが、その味 (文体) が私の真意を曇らせているという疑いを私は抱いています──「独断的」 な臭いとして。私の個性が論説を晦 (くら) ますのでは、聞き手・読み手は その上皮の味を口にしただけで食あたりを起こすでしょう (笑)。しかしながら、「こういう微妙な問題にはいろいろと疑いが湧き上って来ていけない」──というのは、独自性 (originality) とは 「表現の固有性」 の中にしか存しないので、技術 (モデル 技術) の中には存しない。今年最初に綴った 「反文芸的断章」 を読み返してみて下さい

 
 (2012年 1月16日)


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