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But no one has ever been able to tame the tongue. (James 3-8)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。

     歴史小説を書くという事の難しさについては、君自身が、
    こんどの仕事で充分に味わっただろうが、君は一般に歴史
    小説というものをどう考えているだろうか。
     僕は先日 「戦争と平和」 を評した ツルゲネフ の言葉を
    読んで、歴史小説というものについて色々思いをめぐらした。
    (略)

    (略) 一体背景と登場人物、この二つのものを劣らず高度に
    生かした歴史小説というものが可能だろうか、不可能だろう
    かと徒らに疑ってみるのではない。今までそんな大小説を書
    いてくれた人が一人もないのはどうしたわけかと思うのさ。
    僕はこの二つのものをよろしく塩梅する通俗歴史小説の話を
    しているのではないのだ。それを可能にしてみせる、と君は
    言うかも知れない。が、誤解しないでくれ。僕は今、一作家
    の野望に関して考えているのではないのだ。

     現代人はなるほど トルストイ より遙かに明瞭な歴史的
    意識をもっているだろう。これに自惚れられる奴は自惚れさ
    せとくがいい。いや僕がここで言いたいのは、歴史的意識が
    強くなったからと言って、何も歴史家と小説家の間が近づい
    たわけではないということだ。近づいたように思いたがるの
    も、歴史的関聨の下に作家的認識を位置させよ等々の調停
    というものの大好きな批評家等の美辞麗句の誘惑にちょいと
    やられるからさ。二つの精神はあくまで二つの精神だ。妥協
    を考えるより相手を殺そうと考える事だ。相手を殺さなけれ
    ば相手がほんとうにくれたものはわからないんじゃないかな。
    少なくともその方が世の実相に近いよ。再びいう、僕は通俗
    歴史小説家を語っていない。バザアロフ の言葉ではないが、
    「金をもうける芸術と痔を退治する芸術」 は好かない。

     誇張したものの言い方をしていると思わないでくれ給え。トル
    ストイ が振り廻したものは、いわゆる歴史的文化というものは
    真の人間性に比べれば条件的なものに過ぎぬというような
    空虚な思想じゃない。そう言ってしまえば、トルストイ の思想
    など何んの事はないではないか。つまり、そう言ってしまえ
    ば嘘になるのだよ。(略)

 以上に引用した文は一読したら顧みることもないほど当たり前の事を述べているように思われるのですが、私は疑懼 (ぎく) りとして怯 (ひる) みました──中核となっている文は 「二つの精神はあくまで二つの精神だ」 でしょうね。二つの精神とは、歴史的意識と文学的 (あるいは、作家的) 認識です [ 汎化と特化というふうに言い替えてもいいかもしれない ]。したがって、これらの意識は併用できない、と。あるいは、数学の集合論的風言えば、「歴史」 と 「文学」 の交わり (intersection、meet) が歴史小説になる訳じゃない、と。あるいは、一つの事態を複数の視点から観れば総体的に観ることができるという訳じゃない、と。「学際」 の陥りやすい罠を指 (さ) していますね。われわれにできる事は、せいぜい、事態を 「文学的」 に観る事もできれば 「歴史学的」 に観る事もできるというふうに それぞれの単眼鏡 (a monocle) を通して観るしかない。したがって、歴史的知識を豊富に持っていて、しかも文を写実的に綴るのが上手であっても、歴史小説を物することができる訳じゃない。「複眼的」 な見かたは、われわれに対して、事態を いっそう 「正確に」 観れるようにできるのか、、、「複眼的」 な見かたというのは、複数の視点が束ねられただけであって、様々な視点の上での 「解釈」 の存在性を確認するにすぎないと私には思われます

 歴史小説と同様に、「『文学青年』 的 エンジニア」 というのも難儀な範疇だと思う。

 
[ 補遺 ]

 本 エッセー を綴っていた時に、私は、ウィトゲンシュタイン 氏の次の文を思い起こしました。(*)

    赤い円は、赤と円形から、なりたっているとか、これらの構成
    要素からなる複合体であるという言い方は、これらの語の
    乱用であり、誤りを招くものである。同様に、この円は赤い
    (私は疲れている) という事実は、円と赤 (私と疲れ) という
    構成要素からなる複合体である、ということも誤りを招く。

(*) ウィトゲンシュタイン 全集、「哲学的文法 1」、山本 信 訳、大修館書店。

 
 (2012年 2月 8日)


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