anti-daily-life-20130108
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...the sun stopped shining and darkness covered the whole country... (Luke 23 44-45)

 



 小林秀雄氏は、「新人 X へ」 の中で以下の文を綴っています。

    (略) それと言うのも彼らの議論の声は、文壇という
    ものを離れてそう遠いところまでとどくものではない事
    を忘れ勝ちなところから来る。
     例えば僕は君の作品についてどのような美点を数え
    上げればよいか、進歩的な思想、良心的な企画、君の
    作品に限らず、批評家たちは新文学を読んでそういう
    ものを論ずるに事を欠かないのだ。では事を欠くものは
    何んだ。血腥 (ちなまぐさ) さとか、脂 (あぶら)っ濃さ
    とか、色っぽさとか、生ま生ましさとか、その他あらゆる
    形容詞で、文学が始まって以来、この文学という模造品
    のうちに、僕らが掴えて来た原物の印象である。一と口
    に言うなら、高級な批評には堪えるが素朴な鑑賞に堪え
    られない、これが今日の新文学が担った逆説なのだ。

 現代小説を読んでいて、私は そういう感を覚えます。そして、小林秀雄氏が指摘している事は、私が仕事している 「システム 分析 (事業分析)」 の領域でも観られる現象ですが、コンピュータ の話は止めて置きます。

 さて、今回の引用文に関して私の感想を述べようとしても、以前に綴った 「反文芸的断章」 (2012年 5月23日付) と同じ様な感想しか私の頭には浮かんで来ない (苦笑)──私の頭の悪さを嘆くしかないのですが、小林秀雄氏の文も言い回しを変えた リフレーン (refrain) と言えないこともない。

 現代小説に較べて、テレビ 番組の 「LAW&ORDER」 のほうが私は生々しさを感じます。先日も、「LAW&ORDER」 が 5話連続して放送されたのを私は飽きもせず──否、引き込まれて──観ていました、5時間連続で! こういう面白い テレビ 番組を観ることができるのだから、チマチマ とした小説など読まない。「LAW&ORDER」 は、fiction である事を言明していますが、(たぶん、実際に起こった事件を モデル にして台本が書かれていて、) 生々しい。日本の刑事物と較べてみて、「リアリズム」 の違いを まざまざと感じます──こう言っては申し訳ないが、日本の刑事物は、「LAW&ORDER」 と較べたら、「紙芝居」 に見える。それとも、ぎこちない 「箱庭」 に見える、風通しが悪い。「Colombo」 (「刑事 コロンボ」、ケーブル・テレビ の AXN チャンネル) や 「The Mentalist」 の主人公 (パトリック・ジェーン 役を Simon Baker が演じています) の様な捜査官は現実にはいないでしょうが、それらの番組の画面作りは生々しさがある──日本の刑事物で それらを真似た番組もあったので私は観てみましたが、いかにも fiction である事を しょっぱなから感じてしまって白んだ。「リアリズム」 という感性が西洋と日本では違うのかもしれないですね。日本の映画作品の中で 「リアリズム」 を私が感じた作品は小津安二郎監督の作品です──「秋刀魚の味」 には生々しさを感じて、見終わっても余韻に浸って暫し立ちあがる事ができなかった。小林秀雄氏の ことば を借用すれば、「模造品のうちに、僕らが掴えて来た原物の印象」 が刻まれているのでしょう。平成生まれの若い人たちが、彼 (あ) の作品を退屈しないで観るかどうかは私にはわからないけれど、少なくとも昭和 30年代までに生まれた人たちは、郷愁に近いものを感じるのではないかしら。彼 (あ) の作品を西洋人が観たら、(日本の風物を度外視して) かえって生々しさを感じるのではないか。

 小説が そういう生々しさを欠いては、小説の他にも面白い作品は色々あるのだから、そして小説以外の作品──たとえば、映画作品──が大衆を惹きつける理屈抜きの魅力を持っているのであれば、小説が読まれなくなっても当然でしょうね。小説が 「人間生活の総合的な再現」 だとすれば、小説家の筆力が弱くなったというは──小説家として立とうという志を持った人物であれば、文章作成の技術が下手という事はないでしょうから──、とりもなおさず、小説家の視点すなわち小説家が体験・見聞している人生が見窄 (みすぼ) らしいという事ではないか。

 
 (2013年 1月 8日)


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