anti-daily-life-20180615
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to be controlled by the Spirit results in life and peace. (Romans 8-6)

 



 小林秀雄氏は、「支那より還りて」 の中で次の文を綴っています。

     非常時の政策というものはあるが、非常時の思想というもの
    は実はないのである。強い思想は、いつも尋常時に尋常に考え
    上げられた思想なのであって、それが非常時に当っても一番
    有効に働くのだ。いやそれを働かせねばならぬのだ。常識と
    いうものは、人々が尋常時に永い事かかって慎重に築き上げた
    思想である。

 期せずして、今回の定期更新の 「反 コンピュータ 的断章」 と似た テーマ になりましたね──「反 コンピュータ 的断章」 では 「habit (習慣)」 が テーマ ですが、この エッセー では 「常識」 が テーマ です。

 「常識」 とは何か、──小林秀雄氏は 「人々が尋常時に永い事かかって慎重に築き上げた思想である」 と。私も彼の意見に賛同します。

 「常識」 は 「一般的知識」 (大多数の人々が持ち、また、持っているべき知識) のように云われていますが、私は 「常識」 を、小林秀雄氏が考えているのと同じように、 デカルト 氏が使っている語 「methode」(「方法叙説」) のことだと思っています──小林秀雄氏が 「常識」 について語った論説は、デカルト 氏の考えかたを基礎にして、彼の著作 「常識について」 (昭和 39年11月) で述べられています。そのなかで小林秀雄氏は次のように述べています──

     デカルト は、常識を持っている事は、心が健康状態にある
    のと同じ事と考えていた。そして、健康な者は、健康について
    考えない、というやっかいな事情に、はっきり気付いていた。
    デカルト が、ともあれ、彼が、誰でも持ちながら、誰も反省
    しようとはしないこの精神の能力を徹底的に反省し、これまで、
    哲学者達が、見向きもしなかった常識という言葉を、哲学の
    中心部に導入し、為に、在来の学問の道が根柢から揺ぎ、新し
    い方向に向かったという事は、確かな事と思える。従って常識
    というものについてお話しするには、彼のやった事が大変参考
    になるのです。

     デカルト は、常識について反省して、常識の定義を見付けた
    わけでもなければ、この言葉を、哲学の中心部に導入して、
    常識に関する学説を作り上げたのでもない。常識とは何かと
    問う事は、彼には常識をどういう風に働かすのが正しく又有効
    であるかと問う事であった。ただ、それだけであったという事、
    これは余程大事な事であった。デカルト は、先ず、常識という
    人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、
    私達に与えられる諸事実に対して、この能力を、生活の為に
    どう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、
    と はっきり考えた。

 「大多数の人々が持つ知識」 を彼らの持つ知識の共通項 (論理積) として考えるか、それとも個々人の性質のなかで考えるか、、、当然、デカルト 氏は個々人の性質のなかで考えています。多数の知識の論理積を生成して一般化を考えるのは 皆目 無理でしょう。寧ろ、個々人の性質 (自分の精神、分別) に依るほうが一般化できる──その結実が 「我思う、故に我在り」 でしょうね。

 私が敬愛する哲学者 ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学 (「哲学探究」) は、デカルト 哲学の methode を 「言語」 の観点で探究していると私は感じています──ウィトゲンシュタイン 氏の前期哲学は 「論理」 (すなわち、「論理」 と 「思想」) を語り、後期哲学は 「常識」 (「言語」 と 「常識」)を論考していると私は考えています。小林秀雄氏が ウィトゲンシュタイン 氏の著作を読んだ形跡を私は見付けていないのですが、小林秀雄氏の思考が 「常識」 を本源にしていることは彼の著作の随所に見ることができます。私も 「常識」 しか信じていない──デカルト 氏・ウィトゲンシュタイン 氏の示す 「常識」 の意味であれば、当然といえば当然ですが。

 
 (2018年 6月15日)


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