anti-daily-life-20180815
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Not far away there was a large herd of pigs feeding. (Matthew 8-30)

 



 小林秀雄氏は、「満州の印象」 の中で次の文を綴っています。

     西洋の思想が、僕等の精神を塗り潰して了った様に錯覚
    するのも、思想の形だけを見て、思想がどの様に人間のうち
    に生きたかその微妙さを見落とすところから来る。その微妙
    さの裡に現代の日本人がある。言い代えれば、僕等は西洋の
    思想に揺り動かされて、伝統的な日本人の心を大変微妙な
    ものにして了ったのだが、その点に関する的確な表現を現代
    の日本人は持っていないのである。これは現代文化の大きな
    欠陥だ。

 この問題は、日本人に限らず、およそ 「進歩」 している社会に対して、個人 (あるいは、その社会のなかで生活していて、そして自省の強い人々) が感じている問題でしょう──「伝統」 に対する考えかた・態度の問題に収斂される。

 社会が 「進歩」 していくなかで、その社会の人々の意識のうえで、継承してきた有形・無形の何が消えてゆき 何が遺り、そして消えたものが意識下 (無意識) で それでも遺っているのか あるいは悉く捨て去られたのか、、、それを丁寧に見極めることは難しい。この観察は、民俗学とか社会学の テーマ になるのかもしれないけれど、哲学・文学にとっても立派な テーマ でしょう──私は、文学こそ この テーマ に取り組むべきだと思っています。なぜなら、この 「大変微妙な」 問題は、社会のなかで個人に影響を及ぼし、「精神の混乱」 を必ず生ずるから。しかしながら、日本の現代社会で この問題に取り組んで翻弄され、それでも その社会に抗っている作家は幾人いるのかしら、、、私が有島武郎氏に惹かれる理由の一つは、(当時の社会のなかで) この問題を真っ向から取り組んだ作家だと思うからです。批評家のなかでは、亀井勝一郎氏・小林秀雄氏が そうでしょう。

 私自身は、この問題 (「西洋的なものと日本的なもの」 とか 「伝統」) について どのように考えているのか、、、若い頃 (20歳代、30歳代) の頃と現在 (65歳) は、考えかたに大きな違いが出て来たと思います。

 若い頃 (20歳代)には、私は亀井勝一郎氏の著作 「日本人の精神史」 を読んで、自分も日本人の精神史を書いてみたいと思っていました。ただ、当時、自分が 「伝統」 を どれほど切羽詰まって考えていたかは、はなはだ疑問であって、「歴史」 上 遺っている文献を体裁よく まとめれば、日本人の精神史を鳥瞰できるぐらいにしか思っていなかった──つまり、私にとって 「伝統」 は身に迫る問題ではなかった。「亀井的美文」 と云われている美しい文の ウラ に秘められた亀井氏の (「伝統」 に対する) 熱情は、当時の私には わかるはずもなかった、、、。

 30歳代になって、海外出張を多く体験して、日本の 「伝統」 は 或る程度 私自身の問題として考えられるようになりました。その経緯 (いきさつ) は、本 ホームページ の他の箇所で綴っているので、ここでは割愛します。私の 30歳代は、仕事柄、英語の学習に多大な時間を割いた時期です。当時、日本には先例のない リレーショナル・データベース を日本に導入・普及する仕事をしていて、英語で技術を学ぶしかなかった。多くの米国人と接して、そして多くの英語の文献を読んで、日本という国や日本語について色々と考えさせられました。「文学青年」 の気質が強い私は、この時ほど、日本という国を具体的に意識したことはなかったと思います。

 そして、40歳代になって、モデル 論の学習に時間を費やすようになって、数学・哲学を専ら学習していて、日本の 「伝統」 は私の頭から遠のいてしまった。私の 40歳代・50歳代は、モデル (事業分析・データ 設計の モデル) の技術を作ることに費やされました。

 日本の 「伝統」 が私の精神のうえに再び現れてきたのは 60歳をすぎてのことだった。40歳代・50歳代の私は 「論理」 (西洋の数学・哲学の技術・思想) を懸命に学習しました。そして、その学習において、私が気付いたことは、「これらの技術・思想が日本人の私に どうのような影響を及ぼしているのか」 ということでした。「論理」 を純正に使うことができる領域というのは数学・哲学の領域のように限られています──では、「論理」 を それらの限られた領域のみで使っていれば、私の思考・精神とは てんで無関係であるのか、、、「否」。

 思考法を学ぶには、日本の古文 (たとえば、平家物語、源氏物語、枕草子、徒然草などの古典) を読むよりも、西洋の文献 (たとえば、ゲーデル、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、パース、アラン、ヴァレリーなどの書物) を読むほうがいい。私は日本の古典を読んでいて時々思うのだけれど、それらを できるかぎり原文に忠実に読もうとしても、私は ひょっとしたら自分にとって都合のよいように──すなわち、現代の思考法あるいは西洋的精神の影響をうけて──読んでいるのではないか、と。現代と環境条件が違っている古典を当時のままのすがたで読むことは もとより難しい。しかし、古典を読むときには、私のほうに重心を置かないで、「作品のほうに語らせる」──荻生徂徠のことばを借りれば、「格物致知」という接近法──という読みかたを心掛けてきましたが、それでも私は 「現代に生きている、そして現代の思考法を身に着けている」 という制約束縛は免れないでしょう。

 いっぽうで、日本の古典を読んで感じ入っている 「現代に生きる」 私には、古典と相通じる精神が存しているのも疑いのない事実です。能楽には 「本説」 という ことば がありますが、「現代に生きる」 私にとって、先ほど記した古典は 「本説」 として在るのかもしれない。つまり、「伝統」 とは、意識して古典と関係を結ぶものなのかもしれない。なぜなら、自分にとって関係のない事物は、存在していないということと同じなのだから。そして、「本説」 を典拠として新たに作られたものは、その時代の意匠を凝らした事物であってよいのではないか。

 
 (2018年 8月15日)


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