anti-daily-life-20230915
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Stand firm, and you will save yourselves. (Luke 21:19)

 



 小林秀雄氏は、「読書週間 21-二四」 の中で次の文を綴っています。

     読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたの
    ではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に
    価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている
    書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とは殆ど
    意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学
    上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐
    ある協力を希(ねが)っているのです。作品とは自分の生命
    の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを
    希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印
    を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力
    のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ。

 小林秀雄氏の この引用文は──特に、引用文中の 「作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います」 という文は──、期せずして、「反 コンピュータ 的断章」 の前回 (2023年 9月 1日)今回 (2023年 9月15日) で述べた私の感想に一脈相通ずるものがありますね。だから、私は、今回の 「反 文芸的断章」 について感想を綴るのを停めようかなと思ったのですが──というのは、「反 コンピュータ 的断章」 で述べた感想と同じになってしまうので──、感想を停めれば、私の脳味噌にとって、思考の訓練にならないので、「反 コンピュータ 的断章」 で述べた感想とは違う観点から なんとか 思考を巡らせてみます。ちなみに、「反 文芸的断章」 および 「反 コンピュータ 的断章」 で取りあげている引用文は、私の気に入った文を私の自由意思にまかせて選んでいるのではなくて、Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations および 新潮新書 「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」 から 順次 (掲載順に) とりあげ用いています。だから、私の感想を述べやすい引用文を選んでいる訳ではなくて、それらの引用文を 一つの 「なぞなぞ」 として読んで、思考の訓練のために私の意見を述べている次第です。

 閑話休題。私は、今まで拙著 10冊を執筆出版してきました。10冊とも同じ中身の著作はない── 5冊目 「黒本」 から T字形ER法 (TM の前身) を いくども テーマ にしてきましたが (6冊目 「論考」、8冊目 「赤本」、9冊目 「いざない」および 10冊目 「TM 入門」)、それらの著作は T字形ER法が TM へ次第に変貌していく様を ありのままに公表しています。すなわち、それぞれの著作を執筆した時点での私の モデル 「理解度」 を露呈しています──露呈と言った理由は、私の習熟度を あらわに あらわしだしているからです。それら一連の著作は、私の知識が足りないが故に犯した間違いを、後続の著作が正していくという一連の推敲跡 (是正・補正) を刻んでいます。

 T字形ER法を初めて体系立って記述した著作が 「黒本」(5冊目、1998年) です。「黒本」 は、世間では ウケ がよくて、絶版にしたにもかかわらず、今でも高値で闇取引 (?) されているそうです。その著作を出版した当時は、勿論、私は全力で執筆したので愛着があった──しかし、今では、その著作を目にするのも厭わしい。ひとつの モデル 作成技術を 30年近くも学習し続けていれば、当然、習熟度は上がる。そして、過去の著作のなかで犯した間違いを恥じて、(言い訳になるかもしれないのですが) その著作を葬り去りたく思うのは人性ではないか、、、。しかも、当時の文体が鼻に付く。当時、モデル 論 (「数学基礎論」) を学習しないで モデル を いっぱし語っていて、それを 「実務的である」 というふうに錯覚して、いきおい 文体が えらそうな風を吹かしている──我流を押し通して、「この やりかた が最良である」 と言ったところで、正統な・正当な学問の うらづけ を欠いているので、「私の恋人が いちばんに可愛い」 という独りよがりな陶酔と同じ性質でしょう。だから、世間からの賛辞を欲しがる、世間の ウケ が気になる、その状態が私の当時の態 (ざま) でした。

 しかし、一連の著作を執筆してきて、私の心持ちが変わった。世間の ウケ など どうでもいい、真っ直ぐに モデル と向きあうようになった。小林秀雄氏が言うように、「作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います」。おそらく、私は、いわゆる 「技術書」 を文学書のようにみなしているのかもしれない。だれが書いても同じような中身の書物など私は執筆したくはない。「技術」 としての再現性と、それを作る (あるいは、使う) エンジニア の個性は、相反する性質ではないでしょう。「文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力を希(ねが)っているのです」 というふうに小林秀雄氏は言っていますが、「技術書」 に関しても、それは 或る程度 当てはまると私は思っています。芸術であれ、数学・科学であれ、創作者・発明者・発見者については、「この人を観よ」 (この人が考えたこと、この人が感じたことを その人といっしょになって味わえ) としか言いようがないのではないか。

 
 (2023年 9月15日)


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