2002年 6月30日 作成 全集を読む >> 目次 (テーマ ごと)
2007年 8月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「全集」 について、お話しましょう。

 小林秀雄 氏 (文芸評論家) は以下のように綴っています (「文科の学生諸君へ」)。

    ある人の全集を読むという必要を僕は学生諸君に常に説いている。何を読んだらいいかと聞かれると、返答に窮するから、
    答えの代わりに、15円もって神田の古本屋に行って トルストイ 全集を買ってきて半年ばかり何も読まずに読んで見たまえ
    と答える。幾人かの人に同じことを答えたが、実行した人は一人もいない。どうせ何を読んでも不安なのだから、道を打開
    するためにそういう努力をしてみることは絶対に必要なのである。ところが読まぬうちに、読んだところでさてどうなるか
    と考えこんでしまうらしい。読んでみなければ何を得するかは決してわかるものではない。わかるような気がするのも、
    トルストイ を装う術を心得ているからである。(略) 文学によって育てられたものを装う習性は、この世は、実際にやって
    みなければわからぬ事物だけで成り立っている、という偉大な真理を忘れさせてしまう。

 数々の色々な人々とのつきあいのなかで (数少ない) 親友を得ることができるように、読書も多読のなかで 「座右の書」 を見つけ出すしかない。そして、書籍とのつきあいも生身の友人とのつきあいと同じように長い年数をへて育まなければならないでしょう。

 それには全集を読むのがいいでしょう。

 一人の著作を精読して対話をすればいい。あとになってから--自らが人生のなかで成長するにつれて--、その著者を拒否するようになるかもしれないし、「読めば読むほど、新たな感動が起こる」 かもしれない。いずれにしても、一人の著者とつきあうという経験は、生身の友人とつきあうことと同じほどに大切なつきあいでしょう--一人の著者の全集を読むというのは 「恋愛」 関係に似ているのかもしれない。

 僕が最大に毛嫌いする人物は、入門書を読んで--原典を読まないで--入門書のなかに記述されている数語の キーワード を知って、知っている言葉が話題になったら、「ああ、あれね」 というふうに知ったかぶりして割り切る 「小賢しい」 輩です。そういう奴らは、結果だけを頭に詰め込んで、数語の キーワード を使って他人を批評する怠惰な奴らです。そういう奴らは下衆 (げす) い。

 僕が所蔵している全集は以下のとおりです。

  - 有島武郎全集 (12巻)、叢文閣 (大正 13年版)
  - 梶井基次郎全集 (3巻)、筑摩書房
  - 八木重吉全集 (3巻)、筑摩書房
  - 亀井勝一郎全集 (21巻、補 3巻)、講談社
  - 道元禅師全集 (上・下)、筑摩書房
  - 澤木興道全集 (19巻、別 2巻)、大法輪閣
  - 坂本龍馬全集 (全一巻)、光風社書房
  - ウィトゲンシュタイン 全集 (10巻、補 2巻)、大修館書店

 (以上のほかに、今、購入を計画しているのは、芥川竜之介全集・小林秀雄全集・中島敦全集です。)

 全集に収められている作品をすべて読んだのは、以下の 4つです。

  - 八木重吉全集
  - 道元禅師全集
  - 澤木興道全集
  - ウィトゲンシュタイン 全集

 ほかの全集は、ほぼ 70%程度しか読んでいない。
 文学作家の全集を読むたのしみの一つは、「日記」 や 「手紙」 を読む点にある。
 梶井基次郎の綴った手紙は一つの 「作品」 として評価してもよいほどに読む人に浸み入る (一読をお薦めします--たしか、新潮社か角川書店のいずれかの文庫のなかに収められていたと記憶していますが、絶版になっているかもしれない)。

 さて、意表をつくような質問になりますが、もし、無人島に住むことになったとして、書物を一冊だけ携帯してもよい、というふうに言われたら、TH さんは、どの書物を選びますか。僕なら、おそらく、「正法眼蔵」 (道元禅師) になると思います。

 さあ、TH さん、古本屋に行って、だれかの全集を買って精読してみてください。

 ギットン 氏曰く、(参考)

    けっきょく、作者が望んでいるのは、一つの魂のうちで結実することである。彼は読者に書物の行間、欄外を提供し、
    彼の思想のあいだに読者自身が自分の思想を書き入れることを望んでいる。ページ をめくる音も聞こえず、いつまでも
    同じ ページ のまま、読者の凝視のもとにさらされている書物ほど、人を感動させるものはない。

 
(参考) 「読書・思索・文章」、ギットン 著、安井源治 訳、中央出版社、136ページ。

 



[ 読みかた ] (2007年 8月16日)

 荻生狙徠曰く、「万事、その道を論じるには、まず その道を行った人を論じるのが早道です」。そのためには、全集を読むのが いちばんの近道でしょうね。近道といっても、「てっとりばやく」 という意味ではなくて、全集を 「じっくりと」 読むという意味です。

 全集が出版されるほどの人物は、歴史のなかに名前を遺した偉才ですが、偉才の全集を読んでいて感じる点は、偉才であっても駄作を綴っているという点です。偉人の綴った作品が すべて 名作であるとはかぎらないという点を知って、凡人たる私は、ときとして、慰められます。ただ、駄作とは云っても、さすがに、偉才の作品は、全集のなかで--すべての作品のなかで--なんらかの位置を占めています。駄作と云えども、かれらが生涯を通して追究していた テーマ に対して、なんらかの形で関与しているのを感じます。そして、全集を読んで感じた全体像が、作者の 「体温」 ということなのかもしれないですね。「体温」 を感じるためには、作品を成立順に読むのが良いでしょう。

 作品を執筆している最中に、たぶん、作者は、自分で自分を確認するように筆を進めているのかもしれない。たとえ、それが、新たな テーマ を対象にしていても。作者が作品とともに成長してゆく様を、われわれは全集を読んで感じることができますが、たぶん、作者は、それらの作品を綴ったときには、作品群の一貫した体系などを意識的に考えてはいなかったでしょうね。ひとつの作品の構想を考えていても--軸をきめていても--、実際に執筆してみなければ、どうなるか わからない、というのが作者の本音かもしれないですね。勿論、推敲をくり返したと想像しますが、推敲は、当然ながら、文を みずからの思いに近づけるための手入れでしょう。テーマ は、作者の人生観で選ばれると思って良いでしょうね。だから、みずからの思いに しっくりとこない テーマ を選んでも、そらぞらしい文になってしまい、読者を惹くことはできないでしょう。逆に言えば、いい加減な態度で人生を観た作品は、--たとえ、構成力・文体が すばらしいとしても--、多くの人たちの共感を得ることはできないでしょうね。いくつかの作品に対して、構成力・文体のみの すばらしさに惹かれたとしても、全集 (ひとりの作家の すべての作品) に対して、そういう魅力を持続することはできないでしょう。全集を読むということは、作者の人生観に対して 「全人的な共感」 をもっているということでしょうね。
 小林秀雄 (文芸評論家) は、以下の名言を遺しています。

    私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。解する必要を認めない。
    実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもない。
    詩みたいなものを書く単なる馬鹿だ。




  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り