2002年 8月16日 作成 ノート を作成するための読書標識 (2) >> 目次 (テーマ ごと)
2007年10月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうも、読書をしながら、ノート を作成することについて、お話しましょう。
 前回は、文芸的文章を対象としていたので、今回は、論説文を対象にしてみます。

 まず、「文献を正しく読むことができる人々は少ない」 というふうに言えば、怪訝に思われるでしょうが、どうも、それが間違っていないようです。私は 6冊ほど書物を執筆してきて、拙著を読んだ人たちから読者 カード をいただいたり、拙著が書評の対象になったりしますが、それらのなかに綴られている 「感想」 を読むと、私が扱った論点を無視して、都合の良い読みかたをしている読者が多いようです。つまり、論旨を無視して、自らの思いこみで読んでいる人々が多いようです。

 出版されたら、書物は一人歩きしますので、どのように拙著を読んでいただいても、私が関与できることではないのですが、およそ、論説文を対象とした読書というのは、論旨を把握してから意見を述べるのが正しい読書でしょう。

 文献には 「はしがき」 が綴られていることが多いのですが、「はしがき」 は最後に執筆されるので、文献に対する the last touch です。私は、書物を初めて執筆したとき、「はしがき」 を綴ることは 「はしたない」 ことだと思っていました。というのは、訴えたい点は 「作品」 自体のなかで完全に記述されるべきであって、「はしがき」 というのは蛇足だと思い違いしていたのです。

 しかし、今では、逆に考えています。新刊の洪水のなかで、書物を立ち読みして、いくつもの文章を拾い読みしなければ、文献の論点がわからない、というような書きかたは誠実な執筆態度ではないでしょう。訴えたいことがあるから執筆するのだから、執筆する人は真摯で誠実であれば、the last touch を 「はしがき」 として綴ると思います。したがって、「はしがき」 を読んでみて、興味を喚起しないのであれば買わないほうがよいし、興味があれば買えばいい。
 まず、「はしがき」 を読んでください。

 論説文というのは、「主張 = データ + 論証」 という形を踏襲しますから、(主張・データ・論証という) 3つの読書標識を使えばよいでしょう。さらに、記述 (言いかた) の優れている文章も収集の対象とすればよいでしょう。
 したがって、以下の 4つの読書標識を使えばよいでしょうね。
  (1) C (Claim、主張)
  (2) D (Data、データ・具体例)
  (3) W (Warrant、論証)
  (4) E (Expression、言いかたの妙味)

 
 主張・データ(具体例)・論証・言いかたの妙味に対して下線を引いて、以上の 4つの標識を附与してください。
 多読して、読書の技術を体得したら、E の 2つの標識だけにしてもいいでしょう。
 さらに、S という標識を加えてもいいでしょう。S は 「これは、まずい」 という略語です。ウィトゲンシュタイン 氏が自らの草稿を推敲するために使っていた記号です。

 主張・データ・論証を適切に見て取ることができるようになったら、もう、いちいち、標識を使わないで、ただ、下線を引くだけでもよいでしょうね。なお、下線は鉛筆で薄く引いたほうがいいでしょう [ 蛍光 ペン を使わないほうがいいでしょう ]。というのは、後々、訂正しなければならないことも起こるでしょうから。
 ちなみに、論証が長い文章であれば、文章のすべてに下線を引いたら醜いので、開始と終了を示す記号を使えばよいでしょう。小生は、開始の標識として v を使い、終了の標識には / を使っています。 □

 



[ 読みかた ] (2007年10月 1日)

 本 エッセー のなかで、「主張・データ・論証を適切に見て取ることができるようになったら、もう、いちいち、標識を使わないで、ただ、下線を引くだけでもよい」 というふうに綴っていますが、あくまで、「主張・データ・論証を適切に見て取ることができるようになったら」 という前提を立てています。というのは、じぶんに都合の良い読みかたをしないために。

 書物は--特に、論文は--、主張を訴えるために執筆します。そして、主張は、かならず、データ (或いは、ほかの研究家たちの学説引用など) を用いた証明という構成をとります。「解析」 は、「構成」 の逆関数です。或る主張を理解するためには、「データ の信憑性」 と 「推論の妥当性」 を検証しなければならないでしょう。そういう検証法を体得するために、「読書標識」 を使った読書法が役立ちます。
 「くだらない」 書物とは、「読書標識」 で言えば、C (Claim、意見) と D (Data、事実) が混同され、W (Warrant、推論) と E (Expression、修辞) が混同されている書物のことを云います。

 みずからの人生の糧となりそうな説を みずからに都合の良いように 「解釈」 して取り込んでも、もし、みずからの生活のなかに とどめているのならば、私は、なんら、非難するつもりはない。それはそれで、そのひとの人生哲学なのだから。しかし、もし、読者が、書物の趣旨を理解しないで、書物の理非を あれこれと言いたてるならば--そういう 論 (あげつら) いは、正確な 「解析」 を省いてしまって、じぶんの都合の良いような 「解釈」 なので--、そういう読者の知性・良心を私は疑います。




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  佐藤正美の問わず語り