2004年 2月 1日 作成 パラグラフ のありかた (1つの段落 = 1つの話題) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 2月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、パラグラフ のありかたとして、「1つの段落 = 1つの話題」 について考えてみましょう。

 
● センテンス を論理的に結ぶためには、接続語を正しく使う。

 センテンス の集まりが パラグラフ です。センテンス を並べるということは、1つの話題を構成するということです。
 つまり、話題の すじみち が的確に示されていなければならない、ということです。

 センテンス を結ぶ役割をする言葉を 「接続語」 といいます。
 「接続語」 の意味については、諸説があるようですが、基本的には、以下の 3つを 「接続語」 として考えて、間違いにはならないでしょう。

 (1) 接続助詞
 (2) 接続詞
 (3) 指示語

 私は、日本語の文法を専門に研究していないので、接続助詞と接続詞との相違を詳しく述べることはできないのですが、「助詞」 と 「詞」 の相違である、と思って間違いないでしょう。すなわち、「詞」 は自立語ですが、「助詞」 は付属語である、というふうに考えていいでしょうね。そして、接続詞も接続助詞も活用形はない。

 「詞」 と 「助詞」 を、わざわざ、述べた理由は、それぞれの性質が、接続のしかたに現れている、ということを示すためです。接続詞は自立語ですから、接続詞の前では、「。」 を打って、「文を切る」 という性質がつよいし、接続助詞は付属語ですから、接続助詞のあとには、「、」 を使って 「文を継続する」 という性質がつよい。言い換えれば、接続詞を使えば、文が短くなるし、接続助詞を使えば、文が長くなる、ということです。

 接続詞と接続助詞については、暇なときにでも、文法辞典を調べてもらうとして、文を綴る際、陥りやすい罠として、以下の 2つを考えてみましょう。

  (1) 接続助詞の 「が」
  (2) 接続詞の 「そして、しかし」

 
 さきほど、接続助詞を使えば、「文が継続する」 といいましたが、以下の用例が、それを示しています。

 「私は営業を専門の仕事にしているが、
  まいにち、外回りをするのは、春や秋のように気候が涼しいときには良いが、
  夏の猛暑には閉口する。」

 
 接続助詞 「が」 は、多目的に使うことができるので、つごうがいい。上述の用例でいえば、最初に出てくる接続助詞 「が」 は、「導入提示」 を示し、次ぎに出てくる 「が」 は、逆接を示しています。この 「導入提示」 としての役割が、話を続けるには、具合がよいので、「口語」 では、多用されるようです。しかし、これを多用すれば、文章 (書きことば) では、文 (センテンス) が長くなってしまいます。上述の用例は、以下のように推敲すればよいでしょう。

 「私は営業の仕事をしている。
  営業には外回りがある。
  外回りは、春や秋のように気候が穏やかな季節なら愉しいが、夏の猛暑のなかでは辛い。」

 
 接続詞には、以下の種類があるそうです。
  (1) 羅列 (そして)
  (2) 同格 (つまり)
  (3) 選択 (または)
  (4) 反対 (しかし)
  (5) 説明 (なぜなら)
  (6) 展開 (すると)
  (7) 転換 (さて)

 ただ、悪文では、「そして」 と 「しかし (あるいは、「でも」)」 が多用されているようです。つまり、羅列と反対しかできない稚い思考に陥っているのでしょうね。実用的な文では、様々な事態を対比して判断するとか、いくつかの前提を使って推論することが多いので、「または・しかし・なぜなら・すると・さて」 を、適宜、使うはずです。
 接続詞を上手に使う コツ は、(文章を綴り終えてから、) 文章を推敲する段階で、(論理の すじみち を考えながら) 適宜、挿入する、ということです。

[ 参考 ]
 以下の違いを調べてみてください。
 (1) 「から(理由)」 と 「ので(原因)」
 (2) 「場合」、「とき」 および 「際」

 
● 結論は、最初に言うほうがよい。

 実用的な文章は、主張・意見を伝達するために、以下のように、構成されます。

  (1) いくつかの センテンス を並べて、パラグラフ を形成する。
  (2) いくつかの パラグラフ を並べて、1つの主張 (論旨) を提示する。

 1つの主張 (論旨) を提示するために綴られているからには、目的に沿うように、「全体と個」 の関係を判断しながら、構成されています。目的から外れた文は、容赦なく削除されます。そうしなければ、論旨が曖昧になるから。
 そういう構成になっていますから、目的 (結論) を述べないで、個々の文を読めば、logical thread (論理の糸) をたぐることができないでしょう。

 実用的な文は、原則として、「導入提示部のなかで、結論を述べるほうがよい」 といわれているのは、そういう理由だと思います。忙しい現代人は、結論を、まず、聞きたがる、ということではないので、念のため (笑)。
 実用的な文では、「Why-Because (主張-理由)」 形式が基本形である、と思っていたほうがいいでしょう。

 
● キーワード は リレー されなければならない。

 センテンス を並べて、logical thread を追跡しやすいようにするために、接続詞や接続助詞を使うのですが、すべての センテンス に対して、接続詞を付与するということはしないでしょう(注)
 さきほど、接続詞および接続助詞を、「適宜」、使えばよい、という言いかたをしました。接続語がなくても、先行する センテンス のなかに使われた言葉を、次の センテンス のなかに継承すれば、logical thread は途切れない。
 たとえば、前述した用例を、もういちど、観てみましょう。

 「私は営業の仕事をしている。
  営業には外回りがある。
  外回りは、春や秋のように気候が穏やかな季節なら愉しいが、夏の猛暑のなかでは辛い。」

 
 「営業」 と 「外回り」 が、畳み込むように、継承されています。
 接続詞は、接続助詞に比べて、文を短くしますが、キーワード の リレー (継承) は、(接続詞を使わないので、) さらに、文を短くします。

 
● 指示語を多用しない。

 指示語が論点になるのは、「指示」が曖昧になるときでしょう。
 指示語が示す 「範囲」 は、以下の 4つが考えられます。

  (1) 語 (または、語群)
  (2) センテンス (または、センテンス 群)
  (3) パラグラフ (または、パラグラフ 群)
  (4) 文から類推される意味

 (1) および (2) では、使いかたを間違うことは、おおかた、ない、と思うのですが、(3) および (4) では、指示されている 「範囲」 が、読み手の判断次第ということになりかねない。つまり、書き手が送った モノ と読み手が受け取った モノ の間に ズレ が生じる、ということです。したがって、伝達が的確に成立しない、という事態に陥ります。
 たとえば、以下の文を検討してみましょう。

 「毎日のように聴いている モーツァルト の ピアノ・コンチェルト だが、
  注意深く聴いていると、そこに思いがけない発見をすることがある。
  それは彼の人生そのものでもある。」

 
 「そこ」 や 「それ」 が曖昧ですね。たとえば、「そこ」 と 「それ」 のなかに、「ピアノ・コンチェルト」 を代入してみましょう。
  (1) ピアノ・コンチェルト に思いがけない発見をすることがある。
  (2) ピアノ・コンチェルト は彼の人生そのものでもある。

 (1) も (2) も、意味が変ですね。おそらく、(1) の 「そこ」 は、「ピアノ・コンチェルト を注意深く聴けば」 という指示でしょうし、(2) の 「それ」 は、「ピアノ・コンチェルト が伝える (音に託された) 楽想」 ということでしょう。いずれも、「文から類推される意味」 です。この用例は実用的な文ではなかったのですが、実用的な文では、「どう読むかは、あなた次第」 という伝達は落第でしょうね。

 
● 1つの パラグラフ は長くしないほうがよい。

 1つの パラグラフ が 1つの話題を提示するのなら、1つの話題が終われば、1つの パラグラフ が終わる、と考えるのが当然でしょうね。

 パラグラフ の単位を判断する目安は、文のなかで繰り返して使われている キーワード です。キーワード は話題を提示する主たる概念ですから、キーワード が変われば、パラグラフ も変わる、という扱いをするのが適切でしょう。

 さらに、ページ の 「見やすさ」 も考慮してください。実用的な文は散文であって、詩のように音読を前提にしている文とは違い、黙読を前提にしています。つまり、「目で読む」 ことを前提にしています。とすれば、ベタ 打ち状態が長く続く文に比べて、適宜、空隙 (空間的な間) を置いた文のほうが読みやすい。

 
(注)
 「すべての文に対して、接続詞を付与することはしないでしょう」 と述べたのは、「日常的な実用文では」 という前提を考えています。「日常的な実用文」 という制限を外して、たとえば、哲学の文献では、(ほぼ) すべての文に対して接続詞 (および、それに準ずる語) を付与している文献もあります。典型的な例として、スピノザ の代表作 「エティカ」 を訳した書物がそうです。
 スピノザ 自身が、すべての文に対して接続詞を付与しているかどうか、という点を私は知らないのですが、翻訳書では、ほとんどすべての文に対して接続詞が記述されています。訳書のなから、無作為に選んだ例を、以下に記載します。
  [「スピノザ ライプニッツ」、下村寅太郎 責任編集、世界の名著 30、中央公論社 ]。

 第一部 神について 定理八 注解二
 .....。
 なぜなら、.....。
 この結果、.....。
 というのは、.....。
 同じように、.....。
 これに反して、.....。
 そればかりではなく、.....。
 なぜなら、.....。
 これに反して、.....。
 それゆえ、.....。
 というのは、.....。
 だが、.....。
 それゆえ、.....。
 あるいは、.....。
 したがって、.....。
 以上のことから、.....。
 このような前提から、.....。
 つまり、.....。
 たとえば、.....。
 むしろ、.....。
 というのは、.....。
 だが、.....。
 なぜなら、.....。
 したがって、.....。
 このため、.....。
 さて、.....。
 しかし、.....。
 それゆえ、.....。

 すべての文に対して接続詞 (および、それに準ずる語) が付与されているので、logical thread を明晰に追跡しやすい。
 「名訳」 だと思います。工藤喜作さんと斎藤博さんの訳です。

 



[ 読みかた ] (2009年 2月16日)

 本 エッセー は、具体的に細かに記述しているので、取り立てて補遺を綴らなくてもいいでしょう。
 ひとつだけ補足すれば、文は ロジック のみで組み立てられるのではなくて、音 (朗読) も極めて大切な構成組成だということです。音楽に喩えれば、接続助詞は アダージョ のように緩やかに流れる調性で、接続詞は アレグロ で、キーワード の リレー はたたみ込むような ファランドール かもしれない。たたみ込むように一気に進めるときに、接続詞を いちいち入れていたら逆に説得力が失せるでしょう。文には音楽的性質があると言ってもいいでしょうね。

 不思議なことに、作文作法の書物には、文の音楽的性質が説明されていないのはどうしてかしら、、、そういう配慮は、文芸的な文について言えることであって、実用文では無用だと思われているのかしら、、、そうだとしたら、実用文の目的を思い違いしているのではないかしら、、、実用文の目的は──それが記録文・報告文であれ──、最終的には、事実・意見を 「説得する」 という点にあるのだから。それ (説得する、納得してもらう) ということが 「伝える」 という行為の本性でしょう。つまり、文は、つねに、この説得性から判断されるべきであって、ロジック のみで善し悪しが判断できる訳ではない──作文は、作法を守らなければならないけれど、作法以上の物である──という当然のことを外さなければ宜しい。Respice finem (Look to the end).





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  佐藤正美の問わず語り