2004年11月 1日 作成 読書のしかた (文の宣伝的性質) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年11月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「文章の あつかましさ」 について考えてみましょう。

 
 一冊の書物を執筆する人の観点に立って、自らの理論を記述すること考えてみれば、文は、往々にして、読者を説得しよう、という論調になります。 すなわち、文が宣伝的性質を帯びる、ということです。

 マーケット のなかで、多量の情報が流れているので、自らの主張に対して、多くの人たちが振り向いてくれるようにするためには、どうしても、宣伝を考えてしまうのは、やむをえないのかもしれない。
 「宣伝」 は、現代の特徴なのかもしれないですね。

 私自身のことを言えば、過去に出版した拙著を読み返すことができない。というのは、私の綴った文が、宣伝の悪臭を出していて、読み返すと、恥ずかしさを感じるから。私が読み返すことのできる唯一の著作は、「論理 データベース 論考」 です。というのは、論点を、断章風に、淡々と記述してあるのみだから。

 再読に耐えうる書物というのは、事実を正確に伝達している記述であって、宣伝しようという下衆 (げす) い魂胆を捨てたときに はじめて綴ることができるのかもしれない。そういうふうに理解していても、出版するからには、「読んでほしい」 という願いが、かならず、起こるし、「読んでほしい」 という気持ちが高じれば、宣伝が入り込む。

 宣伝的な文というのは、人々の興味を、こちらに向けるために、「非凡」 を装おうとして、無理をしているのかもしれない。執筆の対象となる材料が、すでに、語られてきて、しかも、対象を記述する視点が、独自の着眼を提示できないなら、(──そういう状態なら、もともと、執筆してはいけないのですが、──) 執筆しようとすれば、自らを 目立たせるために、けばけばしい化粧を施すしかないでしょうね。

 亀井勝一郎さんは、本物の非凡を、以下のように、指摘なさっていらっしゃいます。(参考)

   富士山ほどくりかえし描かれた山はない。あの三角形の単純なかたちは、たちまち倦 (あ) きられて俗化してしまう。
   そのとき、あらためて富士山の新しいすがたを発見するものこそ一流の画家だ。たとえば北斎のような富士山の眺めは、
   それ以前の誰も描かなかった。平凡にみえる自然のなかに、千変万化の非凡なすがたを発見するのが芸術である。

 これが、「表現を作る」 ための神髄でしょうね。

 
(参考)

 「思想の花びら」、亀井勝一郎、大和人生文庫 E-25

 



[ 読みかた ] (2009年11月16日)

 書物を執筆するひとは、たぶん、みずからの著作が一読されて捨てられることを希 (のぞ) んではいないでしょう──できれば、著作を いくども読み返してもらって、読者の蔵書のなかに入れてもらいたいと願っているでしょう。逆に言えば、そういう希みを実現できるように、書物の中身を充実するのが著作者の使命です。しかしながら、出版も一つの事業なので、マーケット の好尚に合わせることも配慮しなければならない。したがって、一般向け書物の中身は、「product-out, market-in」 と 「market-out, product-in」 とのあいだで整えられます。そのときに、(マーケット の好尚を無視して、) みずからの思想を訴えるほうを選べば、マーケット では人気のない [ 売れない ] 難解な書物になるでしょうし、逆に、(みずからの思想を抑えて、) マーケット の好尚に合わせるほうを選べば、大衆に迎合した ミーハー 本になるでしょう。出版物の企画そのものは出版社がおこなうので──ときには、著作者のほうから企画を持ち込むこともありますが──、著作者は、出版社から依頼された企画に沿って執筆することが多いようです。私 (拙著) の場合は、最初の 3冊までが出版社から依頼された企画に沿って執筆しましたが、以後の 6冊は、すべて 「書き下ろし」 (出版社から依頼されたのではなくて、じぶんが著作を企画して、じぶんの考えを 「世に問う」 という執筆態度で出版してもらった書物) です──したがって、4冊目以後では、私は、みずからの考えかたを整えるために執筆してきて、マーケット を ほとんど意識してこなかった。そういう 「書き下ろし」 の書物を出版してくださった ソフト・リサーチ・センター 社に感謝しています。

 拙著では、「書き下ろし」 の著作が多いので、そもそも 「売れ筋の」 書物にはならないし、どちらかと言えば、世間に対して 「挑戦的な」 態度で執筆してた著作です。そのために、4冊目 (「RAD」) と 5冊目 (「T字形 ER」) は、みずからの考えかたを述べようとして せっかちになって、「挑発的な・皮肉的な」 文が満載で悪臭が充満しています──それがために、本 エッセー のなかで 「宣伝の悪臭を出していて、読み返すと、恥ずかしさを感じる」 と綴っています。ただ、当時の 「モデル に対する考えかた」 は、(それぞれの技術に対する理論的な証明が拙かったので、いくつかの間違いを犯していますが、) 基本的に今でも変わっていない。その考えかたを理論的に整えて技術を単純化した著作が 6冊目 (「論考」)、8冊目 (「赤本」) および 9冊目 (「いざない」) です──「論考」 は構文論を検討して、「赤本」 は意味論を検討して、「いざない」 は モデル の正当化条件・真理条件を検討したので、これらは 「三部作」 の構成になっています。この三部作では、私の文体は少なからず変化しています──「挑発的な・皮肉的な」 文は、ほとんど消えています。そして、興味深いことに、「悪臭に満ちた」 著作のほうが マーケット では ウケ た [ 数多く売れました ]。





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  佐藤正美の問わず語り