2006年 1月 1日 ゆく年、く る年 >> 目次 (テーマ ごと)


 

 TH さん、まいとし、年末になると、渋谷で会って、酒を飲みながら語り合い、ゆく年を見送り、新しい年を迎える習慣が 30年続いていますね。

 
 あなたが病に倒れて以来、ここ数年のあいだ、まいとし恒例の忘年会ができないので、ぼくは寂しい。
 あなたと、たまたま、大学の同級生になって以来、30年以上のあいだ、おたがいの成長を観てきましたね。いまでは、おたがい、50歳を超えました。年齢を重ねれば、「想い出」 を語る傾向になりがちですが、あなたは、いつも、「今の」 あなたの見かた・感じかたを語りますね。あなたは音楽 (ロック) が好きで、ぼくも音楽 (クラシック) を好きですが、おたがい、音楽の趣向はちがうのですが、あなたの語る ロック の話を ぼくは愉しく聞くことができる。ぼくは、いま、ヘンテ゛ル の オルカ゛ン 協奏曲 (Concerto for Organ in G minor/major op.4/1 HWV 289) を聴きながら、この文を綴っています。静かな夜です。

 この 「ゆく年、くる年」 も、5 回目を迎えました。言い換えれば、5 年間、この ホームヘ゜ーシ゛ を綴ってきました。この ホームヘ゜ーシ゛ では、整えられた ぼくの考えを認 (したた) めているのではなくて--いちぶ、そういう ヘ゜ーシ゛ もありますが--、ぼくが考え苦しんでいる未消化の検討事項を、そのまま、綴っています。そして、まとまっていない考えを綴りながら、次第に はっきりとした形にするように苦闘しています。だから、この ホームヘ゜ーシ゛ は、決して、読みやすい ホームヘ゜ーシ゛ じゃない。ただ、みずからの立っている所から、みずからが観ることのできる対象を、みずからの考えかた、みずからの感じかた、つまり 「私の生きる流儀」 を基調にして綴っているので、読者におもねった口当たりの良い作為を、一切、施していない。

 「私の生きる流儀」 は、もう、時代おくれになったのかもしれない。
 ぼくの思考は、歳を加えるにつれて、いっそう、冴えてきているのですが、いっぽうで、感性のほうは、「時代の空気」 に対して抵抗を感じるようになってきました。ぼくの感性は、昭和40年代 (1975年まで) で止まっているようです。いまの時代は、当時に比べて、確かに進歩していますし、生活も豊かになりました。昭和40年代に比べて、豊かな生活を送っているので、いまさら、昭和40年代に時計の針を戻そうと思う人たちは、ほとんど、いないでしょう。

 コンヒ゜ュータ 業界のなかで仕事をしている ぼくは、1980年代に、RDB を日本に導入・普及して、さらに、1990年代初頭に、UNIX や ハ゜ソコン の普及を訴えてきました。
 そういう仕事に従事してきて、仕事のなかで、ぼくの人生観が形成されて、high-tech (in the forefront of modern technology) に対して、ぼくは好意的なのですが、いっぽうで、ぼくの感性が、その仕事観に対して、抑止力として作用するようになってきました。昭和40年代の感性 (ぼくの感性の原点) に対比して、いまの時代のなかで感じる the taste (thought) of the times が、ぼくの快感を損なうほどに離れてきたのかもしれないですね。すなわち、いまの時代の志向は、ぼくが対応できる許容枠 (permissible level) を超えたのかもしれない。谷崎潤一郎作 「陰翳礼讃」 は、ぼくが子ども時代 (小学生時代、昭和30年代) を送った原風景として共感しています。その風景が、ぼくの感性の原点かもしれない。

 そういう状態では、仕事をしていても、あるいは、生活を送っていても、ぼくの快感が損なわれ、ストレス が堆積するいっぽうです。そろそろ、「舞台を降りるかどうか」 を考えなければならない時点にきたのかもしれない。思考力が衰えた訳じゃない。否、思考力は (逓増するように、) 冴えてきています。思考力が上昇している最中に、「引退」 を考えるというのは奇妙な振る舞いですが、ぼくは、みずからの感性に対して無理無体を強いるつもりはない。最近になって、ぼくのなかで、思考力と感性の均衡が崩れ始めて、鬱積を感じています。

 ぼくは、みずからの人生を閉じる際、以下のような情景を思い浮かべます。
 海辺の松林で、坐禅して、そのまま、死んで、白骨になって、子どもたちが、松林に遊びにきたときに、骸骨を見つけて、「なんだ、これ〜」 と叫びながら、棒で、骸骨を、つんつんと突っついている情景が浮かびます。ぼくは、人知れず みずからの人生を閉じたい。

 「陰翳礼讃」 と 「海辺の松林」 の接点に浮かんでくる風景が、ぼくが子どもの頃に育った (半農半漁の) 村です。その村で過ごした生活が、ぼくの感性の原点です。

 さて、新しい年を迎えました。
 「時間」 は、そのなかで生活している人たちが、どのように振る舞おうが、確実に、一針ずつ進みます。
 どのように 今後 身を振るかを、年頭にあたって、「立ち止まって」、考えてみたいと思います。



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  佐藤正美の問わず語り