2005年 3月 1日 作成 「あとがき」 を読む >> 目次 (作成日順)
2007年12月 1日 更新  


 「あとがき」 が、小生の「主張」を、いちばんに述べている ページ かもしれない(笑)。
 「あとがき」 は、当初、綴るつもりはなかった。

 
 「あとがき」 のなかで、小生は、以下の諸点を論点にしている (再確認している)。

 (1) 「関係」 には、対称性と非対称性がある。
    事業のなかで使われる データ を対象にして、「関係」 を関数として扱うことはできない。

 (2) 「個体の認知」 は、最初に、(関係論的な) 「性質の認知」 があるのではない。
    事業のなかで使われる データ には、「個体の認知」 として、コード が付与されている。

 (3) 集合を メンバー にして、さらに、集合を作る際、「概念」 は抽象化される。
    集合としての性質 (集合的性質) と、メンバー としての性質 (周延的性質) は違う。

 
 (1) は、T字形 ER手法の最大特徴となった 「指示規則 (event 概念と resource 概念)」 を擁護している。(2) は、T字形 ER手法が、モノ の認知手段として、セット 概念も クラス 概念も使わないで、コード 体系を前提にして、コード 体系のなかの コード・番号を認知番号として使い、モノ を認知することを擁護している。また、T字形 ER手法は、周延的性質を重視して、(3) を構成する タイプ 理論を使わない。

 そして、モノ は、「単文 (「1つの主語- 1つの述語」 形式)」 を単位として、同じ主語をもつ述語の 「連言」 として、記述される。T字形 ER手法の正規形は、主選言標準形である。当然ながら、「文」 は、集合論的観点から扱うことができるので、「文」 は、集合を使って、検証することはできる。さらに、T字形 ER手法では、「概念的 スーパーセット (クラス 概念)」 も、導入している。しかし、セット 概念も クラス 概念も、「文」 を単位に記述された entity (および、それを前提にして、生成規則を使って導出された構造) を検証するために導入されているのであって、T字形 ER手法は、セット 概念および クラス 概念を前提にしている訳ではない。

 
 「論理 データベース 論考」 を執筆して、T字形 ER手法に関する技術的論点は検証したつもりであった。
 しかし、今から振り替えれば、サブセット に関して、若干、検証が弱い点がある。また、当時、モデル は、構文論でなければならない、というふうに、小生は考えていた。だが、「event」 概念と 「resource」 概念というように、指示規則を前提にした概念を導入しているので、意味論にも言及しなければならない。サブセット の検証と意味論に関しては、出版してから、本 ホームページ のなかで、補足として述べてきたので、本 ホームページ (「ベーシックス」) を読んでいただければ幸いである。T字形 ER手法を、意味論的に検証していたら、その体系を、以下の 2つに切り離したほうが妥当であることに気づいた。

  (1) (意味論を前提にした) 構文論
  (2) 意味論を、つよく適用した 「モノ の認知」 の再編成 (「みなし」 概念)

 (1) を 「TM の体系」 とし、(2) を 「TM’ の体系」 として、昨年 (2004年)、T字形 ER手法の体系を再編成した。T字形 ER手法は、(意味論を前提にした) 構文論として、「4つの生成規則」 を使う。その生成規則が、数学の規則準拠性と比べて、どのような違いがあるのか、という点を検証するために、「論理 データベース 論考」 を執筆したので、数学基礎論・論理学 (および、哲学) の基礎概念を、前半、網羅的に、まとめて、「数式の多い」 むずかしい書物という悪評が、世間では、立った。

 しかし、この書物を執筆して、小生は、(意味論的な観点からの) 「null」 の論点や、「関係」 の対称性・非対称性を、いっそう、意識するようになったし、モデル として、「指示規則 (値の真理性)・生成規則 (構造の妥当性)」 を認識できるようになった。小生が、そのあと (出版してから)、一歩を進める踏み台となった書物である。この書物を出版してから、事業過程のなかで使われている (実際の) データ を観る眼が、鋭くなった、と我ながら感じている。そして、そうなることは、ほんらいの理論 (集合論・論理学・哲学) が、作用する しかた だと思う。

 コッド 氏 (Codd, E.F.) は、一昨年 (2003年)、他界された。コッド 関係 モデル がなければ、T字形 ER手法は、絶対に生まれていなかった。コッド 氏に対して、感謝を述べたい。 □

 



[ 補遺 ] (2007年12月 1日)

 「補遺」 も最終回になりました。(今回をふくめて、) 45回にわたって、「補遺」 を綴ってきました。「補遺」 を綴るために、「論理 データベース 論考」 (以下、「論考」) を いくども読み直しました。私の著作のなかで、「論考」 は、私が、いちばん多く くり返して読んでいる書物です--私は、過去に出版してきた著作を読み直さないのですが、「論考」 だけは例外です。「論考」 は、拙著 「黒本 (T字形 ER データベース 設計技法」 を否定 (あるいは、訂正) するために出版された著作です。「黒本」 は、TM (T字形 ER手法) を 「作っている」 段階で執筆した著作であって、「TM の技術」 を説明することに始終しています。いっぽう、「論考」 は、実地に使っていた 「TM の技術」 を、数学 (数学基礎論)・論理学・哲学の観点から検討した著作です。TM は、当初、コッド 関係 モデル を実地に適用しようと工夫しているなかで--その工夫が、本 エッセー (すなわち、「『論考』 の 『あとがき』」 のなかで述べた諸点なのですが--、ウィトゲンシュタイン 氏の前期哲学 (「論理哲学論考」) を流用して、技術を作りました。TM は、まず、実地に技術が作られて、そのあとで、理論的に検証されるという生成過程を辿りました。最初から 「妥当な理論」 を前提にして作られた訳ではなかった--というのは、コッド 関係 モデル (「完全性」 が証明されている モデル) を前提にして、その モデル を実地に使いながら、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を参考して、いちぶずつ、変形していって、TM を作ったから。

 そういう生成過程を辿っていたので、私は、当初、TM の 「理論的な妥当性」 など--コッド 関係 モデル を起点にして、かつ、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を流用したので、正当な・正統な前提を継承していると思っていたから-- TM の技術を揃えたあとで、「コッド 関係 モデル (述語論理の公理系と セットの公理系) + 補充した技術 (命題論理を基礎にしている技術)」 の体系として 「コッド 関係 モデル の 『同型』--あるいは、『単純拡大』--」 で 「完全性」 を簡単に証明できると高を括っていました。しかし、ことは それほど単純ではなかった、、、。
[ 以下に記載する文は、「反 コンピュータ 的断章」 (2007年10月16日) で綴った文を再収録しました。]

 TM の最大特徴は、「個体 (entity) を、まず、認知して、次に、個体を 『event (関係型)』 と 『resource (主体型』 に分類して、現実の事態を モデル 化する際に、『resource が event に侵入する』 という考えかたで関係文法を組んだ」 点でしょうね。そして、この特徴点は、数学的 ソリューション ではなくて、「哲学的 ソリューション」 を使ったので、数学的な モデル を離れてしまいました。TM では、entity は、以下のように定義されています。

    entity である = Df 認知番号を付与された管理対象である。

    event である = Df 性質として、「日付」 が帰属する entity である。

    resource である =Df event 以外の entity である。

 「関係の論理 aRb」 では、a と b が 「個体」 とされ、R が 「関係」 とされています。

 a と b が 「event」 であれば、TM の 「event」 の定義によって、R を 2項述語 「a は b よりも小さい (<)[ あるいは、a は、b に対して先立って生じる ]」 と考えて、時系列のなかで、並べます。「直積集合」 として考えても良いでしょう。あるいは、「対の公理」 を前提にして、「順序対」 を構成すると考えても良いでしょう { { a, a }, { a, b } }。すなわち、「event」 は、半順序集合 (あるいは、全順序集合) [ (E, ≦) ] です。

 a と b が 「resource」 のとき、R を 2項述語 「a と b は、ひとつの事態 (意味) を作る」 と考えます。そして、R は (「対の公理」 { a, b } を前提にして、) a と b を メンバー とする集合 X が存在することを仮定して 「対照表」 を構成します。ただし、文法上構成された 「対照表」 (L-真) は、かならず、(「置換公理」 f (x) を前提にして、) 集合的性質として、事実的事態と対比して、「事態」 としての 「F-真」 を験証します。「対照表」 のなかのメンバー (a と b) は、「基本的に」、「非順序対」 です。

 さて、R の 「述語」 として争点になるのが、「event」 と 「resource」 のあいだの関係です。
 数学では、aRb を R (a, b) とみなして、関係主義の観点に立って、直積の部分集合として 関係 R を考えて、関数 R のなかで 関数 f [ f (x, y) ] を組みますが、TM は、aRb の 「基本形 (原形)」 として、実体主義の観点に立って、個体 (a と b) を 「resource」 として考え 関係 R を 「対照表 (事態)」 として考えています。そして、「対照表」 に対して、認知番号を付与すれば、「entity (event)」 とみなします。すなわち、「event」 と 「対照表」 のあいだには、「対照表は、event をふくんで、さらに拡がっている」 という関係が存在します。とすれば、上述したように、「対照表」 は、(「対の公理」 を前提にして、2つの集合 (a と b) を メンバー とする集合 X が存在する構成にしていますので、もし、「対照表」 が認知番号を付与されて 「event」 として認知されても、「event」 のなかに、「resource」 が関与 (侵入) している構成になるという次第です。

 なお、1つの集合のなかの メンバー を並べる 「再帰」 構成は、半順序集合 (あるいは、全順序集合) です。

 さて、上述したように、TM は、entity (数学的には、「項」 と言っても良いでしょう) を 「半順序集合 [ 関係の対称性を示す集合 (event)]」 と、そうでない集合 [ 関係の対称性を示す集合 (resource)] に分類して、2つの集合のあいだの関係として、2項述語 「resource は、event に対して、侵入する」 を考えました。一見すれば、関数 f (x, y) に似た構成になっているように思われるのですが--「存在とは、変項になりえること」 という 「解釈」 に似ているのですが--、TM では、f (x, y) が、「構成表 (対照表)」 として現れたり、単独の 「entity (event)」 として現れたりします。「対照表」 と 「event」 は、基本的に、性質が同じであって、相違点は、「認知番号--「合意された」 個体指示子--が付与されているかどうか」 という点です。すなわち、「形相 (認知のしかた)」 が違っていても 「性質」 は同じである、ということです。「性質」 が同じであれば、数学上、同値類として扱わなければならないでしょう。しかし、TM 上、それらを同値類として扱っていない。というのは、TM は、性質・関係を二次的に考えて、実体主義の観点に立って、個体を一次的に考え、「個体の認知」 に関して、「合意された」 認知--すなわち、認知番号を付与されているかどうか、という点--を重視したから。この点が、数学的な ソリューション にならなかった次第です。

 ただ、TM を モデル として考えるなら、数学的な厳正さはないにしても、「無矛盾性 (『A ∧ ¬A』 が存在しないこと)」 と 「完全性 (証明可能性)」 を、なんとかして実現したいと私は考えていました。そのために、私が考えた やりかた は、「経験論的な言語 L (物言語)」 として、以下の体系を守って、指示規則と生成規則を示すことでした。

 (1) 語彙 (論理定項と 「観察述語」)
 (2) 文の生成規則

 数学上、(2) は、述語論理の公理系 (PM など) が使われますが、私は、上述した 「TM の関係文法」 を使いました。ただし、その文法では、「構成」 のなかで矛盾をふくまないように、「entity」 の定義には注意を払って、「entity」 を 「『event』 か、あるいは、それ以外 (補集合)」 すなわち、排中律 「A ∨ ¬A」 を使いました。言い換えれば、「event かつ resource」 とか 「event でもないし resource でもない」 という集合が生じないようにしました。そして、(拙著 「論考」 を出版したあとになったのですが、) 数学的な 「完全性」 の代わりとして--数学的な 「完全性」 は、意味論的な 「真」 を構文論的な証明可能性と同値であることを示しましたが--、私が 「完全性」 を守るために導入した やりかた は、以下の やりかた でした。

 (1) 「合意された集合 (entity)」 を作る。
 (2) 「合意された集合」 に対して、関係文法を適用して、「L-真」 を構成する。
 (3) 「L-真」 に対して、指示規則を適用して、「F-真」 を験証する。

 すなわち、TM は、数学的な 「完全性」 を実現できないので、数学的 「完全性」 の証明手順とは逆に、(2) で、かならず、すべての 「構成」 が 「規則」 から導かれていることを実現して、その 「構成」 に対して、(3) で、意味論の観点から、「F-真」 を問う、という手続きにしました。TM の 「無矛盾性・完全性」 を守るには、その やりかた しかなかった。

 以上に述べてきた ことの次第が、拙著 「『論考』 のあとがき」 で私が pending にしていた ことがら に対する対応でした。その対応の あらまし を記述した著作が、(「論考」 のあとで出版した) 「赤本」 です。

 





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