2005年 5月16日 作成 「個体の同一性」 と 「言明の同一性」 >> 目次 (テーマごと)
2009年 6月16日 補遺  


 
 「現実世界」 では、「同一の 2つの 『個体』 は存在しない」 という前提は、正しい。というのは、個体の存在は、「...の時間に、...の所にある」 という概念だから、1つの空間 (1点) を、2つの個体が占めることは、あり得ない。

 したがって、「モデル」 のなかで使われている記号が、「現実世界」 のなかに存在する 「個体」 を指示するように定義されているなら──たとえば、指示語が unique-key として定義されているなら──、記号は固定指示子 (クリプキ 氏の言う rigid designator) として作用して、たとえば、記号 a と記号 b が言明 「a = b」 として記述されていれば、記号 a と記号 b が指示する対象は同一である、と判断できる。

 とすれば、もし、現実世界のなかに存在する個体と記号 (unique-key) のあいだに、「1 対 1」 の対応関係 (指示関係) を作ることができるなら、現実世界を対象にして、現実世界を記述して、現実世界の モデル を作ることができる、と考えても無理はない──しかし、私は、この考えかたを否認する。

 経営過程に関して言えば、モデル を作る際、事業過程を対象にして、「現実世界」 のなかに存在する 「個体」 のみが、モデル の対象になる訳ではない。たとえば、「カラー・コード」 とか 「サイズ・コード」 を考えてみればよい。
 ウィトゲンシュタイン 氏は、この点に関して、以下のように述べている (「哲学探究」)。

   メートル 尺は、1メートルとも、1メートルでないとも、言えない。
   それは、メートル を測る言語 ゲーム のなかで、それが果たす特異な役割を明示しているにすぎない。

 さて、「カラー・コード」 とか 「サイズ・コード」 も、同じ役割なのかもしれない。
 「現実世界」 のなかに存在する 「個体」 には──集合論的 「無限」 を論点にしないのであれば──「長さ」がある。したがって、「長さ」 は、「個体」 に帰属する性質であって、「長さ」 そのものは、「現実世界」 のなかで、単独の 「存在」 として指示できない。言い換えれば、「1メートル」 という記述と、「...の時間に、...の所に存在する個体 a の長さ」 という記述には、そもそも、役割が原理的に違う。

 「サイズ・コード」 のなかで記述されている 「1メートル」 が 「有意味な」 指示規則として作用できるのは、「『規約』 として使う」 という同意を前提にしている。

 フレーゲ と ラッセル が提示した考えかたは、「性質を記述すれば、『名指し』 の意味を示す」 ことを論旨としているとも理解できるし、「『名指し』 は、個体に対する指示関係を示す」 ことを論旨としているとも理解できる。ただ、もし、「性質の記述が 『名指し』 の意味を示す」 のであれば、指示記号 (unique-key、あるいは、広義に、コード 体系の認知番号) は不用である。というのは、性質を、いくつか、連言として記述すれば──「『いくつ』 の性質を選べばよいのか」 という点を、私は示すことができないが──、個体を指示できるはずだから。
 しかし、「現実世界」 では、論法は逆でなのである (!) すなわち、「或る性質が、或る個体に帰属する」 というふうに考える理由は、その個体が、どのような事態のなかで存在しても、その性質が 「真」 となる、ということなのではないか。それを記述するために、われわれは、個体を指示する記号 (unique-key、あるいは、コード 体系) を導入している、と私は思っている。属性値集合を セット として、関係 (直積集合) のなかで、「個体」 を記述した コッド 氏でさえ、「個体」 は、すでに、記号化されている、という前提に立っている──まして、コッド 氏は、直積集合のなかで、「起こり得たかもしれない世界 (直積の組)」 も対象にしたので、個体を指示するための 「固定的な指示記号」 を導入しなければならなかったはずだ、と私は判断している。
 小生は、拙著「論理 デーベース 論考」 の 「あとがき」 のなかで、以下のように綴った。

   認知のやりかたとして、以下を考えてみたい。

     (1) 積木が 2つある。球と円錐である。
     (2) 野球の ボール が 1つある。

   球の性質が帰属する モノ (積木の球と野球の ボール) を集めて 「集合」 を生成して、球の性質を検証することには、
   小生は、おおいに、賛成するが、(日常言語の使いかたでは、) 積木と野球の ボール というふうに 「認知」 するのが
   普通ではないか。

 この文章は、前述した 「『或る性質が、或る個体に帰属する』 というふうに考える理由は、その個体が、どのような事態のなかで存在しても、その性質が 『真』 となる、ということなのではないか」 という考えかたを根底にしている。
 そして、小生が論点にしたかったのは、「個体の一意性 (性質の記述が、『名指し』 を 一意に示すこと)」 ではなくて、「記号と個体との指示関係」 であった。しかも、個体を記号化する際、(経営過程を対象にするなら、) 認識主体の 「恣意性」 を排除したかった──そのために、「コード 体系」 (事業過程に関与している人たちのあいだで成立している 「認知の同意 (規約)」) を、認知番号として使った。

 「論理 データベース 論考」 を出版した直後に出た書評のいくつかは、「独断的 (独りよがり)」 という酷評を綴っていたそうである(笑)──その酷評が、私の考えかたを対象にしていたのか、それとも、数式の並んだ──私自身は 「入門向け」 として綴ったのだが──記述を対象にしていたのか、という点を、私は推測できないが、いずれにしても、私の考えかたを理解していたのかどうか、という点は疑わしい。私の提示した論点は、論理学・哲学の意味論的系統 (ウィトゲンシュタイン → カルナップ → クリプキ) を前提にしているのであって、小生の 「独断」 ではない。
 もし、「独断的」 な点があるとすれば、指示規則として、「規約 (同意)」 を示す コード 体系を起点にした、という点かもしれない。ただし、T字形 ER手法は、コード 体系のなかで記述された指示 コード のみを対象にして 「個体」 を認知しているのではなくて──それは、指示関係を示す際、個人の 「恣意性」 を排除するための起点であって──、「みなし」 概念も導入している。「個体の同一性」 と 「(指示記号を使った) 言明の同一性」 は、同じではない。たとえば、以下の点を考えてみればよい。

     (unique-key、コード 体系の認知番号)=(T、T)∨(T、F)∨(F、T)∨(F、F).

 論点になるのは、(T、F) と (F、T) である。すなわち、「認識主体が──システム・エンジニア だと思うが──認知しているが [ 本稿では、システム・エンジニア が、どのようにして、「個体」 を認知したのか、という点を、最大限に譲渡して度外視するが ]、コード 体系では認知番号を付与されていない」 という事態ならびに 「認識主体が認知していないが、コード 体系上、認知番号を付与されている」 事態が、「対象」 と 「言明」 のあいだで、一致しない。
 もし、「現実世界」 のなかに存在する個体を対象にして、モデル を作るのであれば、「カラー・コード」 とか 「サイズ・コード」 というような (F、T) 現象は、なんら、(指示関係を示さない) 「無意味な」 コード になる──事業過程に関与している人たちが認知しているにもかかわらず (!)。

 「認知」 あるいは 「指示関係」 として、(T、F) および (F、T) を、どのようにして対応しているか、という点が、モデル の特徴 (前提) になる。



[ 補遺 ] (2009年 6月16日)

 本 エッセー を読み返してみて、ずいぶんと 間怠 (まだる) っこしい文を綴っているなあと感じました (苦笑)。本 エッセー の綴られた日付が 2005年 5月なので、拙著 「データベース 設計論 (関係 モデル と オブジェクト 指向の統合をめざして)」 を執筆しはじめた頃でしょうね。ということは、この時点で──拙著 「データベース 設計論」 をふくめて──、私は いまだ 意味論 (および、モデル の構成要件 [ あるいは、モデル の正当化条件 ]) を把握していなかったということです。私が 「モデル の正当化条件」 を把握できた時点は、拙著 「モデル へのいざない」 (2009年 2月出版) を脱稿したときなので、2008年の 10月頃だと思います。今なら、私は、モデル の前提として、まず、以下の 2点を置きます。

 (1) ユーザ が使っている言語を変形しない。
 (2) できるだけ機械的に構成する。

 (1) は、言語哲学的意味論の前提です。すなわち、自然言語で記述された文に対して、その文を変形しないで、「意味」 を明らかにしようという前提です。この前提が、本 エッセー の最終文 「『認知』 あるいは 『指示関係』 として、(T、F) および (F、T) を、どのようにして対応しているか、という点」 を そもそも 論外にしてくれるでしょうね。
 そして、自然言語の語いに対して 「論理法則」 を適用して形式的構成を作るのが 「できるだけ機械的に構成する」 ということであって、「導出的な L-真」 の構成です。L-真として構成された文が、事態 (言い換えれば、「事実」) を記述しているかどうかという験証が 「事実的な F-真」 の験証です。この験証で使われる真理条件 (タルスキー 氏が示した規約 T の応用形) が以下の文です。

  言明 「p」 が真であるのは、時刻 t において、事態 p と一致するとき、そして、そのときに限る。

 「p」 が、L-真として構成された文です。たとえば、以下の文がそうです。

  { 受注番号、顧客番号 (R)、商品番号 (R)、受注日、受注数 }.

 この文において、「真とされる値」 が充足されれば──たとえば、「受注番号 001 で、佐藤正美が商品 A を 2009年 6月16日に 3個注文した」 という値が (それぞれの データ 項目のあいだに設定されている制約・束縛を満たして 「真」 とされる値になっていれば──、「F-真」 を実現していることになるでしょう。

 さて、ここで争点になるのが、「では、自然言語と事態との対応関係は どうなっているのか」 という点です。この点が言語哲学的意味論の争点です。この点について、私は、ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学 (意味の使用説) を前提にしました。すなわち、語いは、それぞれの語として事態と対応するのではなくて、その語いを使う人たちの生活様式を前提にして使われ、その語いを前提にして構成された文 (文法に従って構成された 「L-真の文」) の意味は文脈のなかで 「解釈」 される、と。そして、もし、文法に従って構成された文が、経験論的言語 L としての性質を帯びていれば、文は 「事態を記述できる」──文が事態と一致しているという意味ではなくて、文は 「事実」 を記述しているという点に注意されたい──、と。すなわち、文として記述された 「事実」 が、ひとつの判断として認められるということ。

 以上に述べたことを 「モデル の正当化条件 (構成要件)」 として図示すれば以下のようになるでしょう。

                  (F-真)
  ┌──────────────────────────────────┐
  │                                  │
  │         ┌───────┐                │
  │         │       │                │
  │        ─┘       └─               ↓
  y (形式的構造) ←    f    ← x (語彙) ← 「情報」 ← 現実的事態
           ─┐ (L-真)  ┌─
            │       │
            └───────┘

 この構成要件が TM (T字形 ER手法の改良版) の 「モデル の正当化条件」 です。





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