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 ●  ゲーテ (詩人) のことば

  私の発表した一切のものは、大きな告白の断片に過ぎない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  即ち 「無求の求」 というものがあって、(略) 厳密に言えば真理は説くことも出来ない。何故なら、説くこと、示すこと、直ちにそこに自分の分別なるものが入ることだからである。こういう困難を自覚しながら、しかも説きかつ示すということが大切だと言うのである。換言すれば、真理とはすべて語り難いものであり、語りつくしえないものである。そして語り難く、語りつくし得ないもののみを語ろうとするところに、真理探究の本質があるという意味である。だから薄氷をふむような危険な作業なのだ。もし教えるものが自分の見解によって真理をゆがめたならば、そのことで、今度はそれを求める人々の汚れない魂に傷をつけたということになる。真理の名において人間の本性をゆがめるような結果を生むことさえある。人間は学問や知識を積みかさねることによって、逆に人間性の素直な美しさを失って行く場合もある。(略)


/ 2012年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ホフマンスタール (詩人) のことば

  もっとも繊細なものを創る者のみが、もっとも強いものを創りうる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「求める」 という言葉の中から、あらゆる意味での功利性を排除しなければならない。現代では、文学美術はむろんその他多くのことについて、その 「見方」 といったものが極めて発達している。そのためのさまざまな入門書や解説書もある。初心者にとって、ある程度必要なことではあるが、その 「見方」 なるものが実はそれを書いた人間の限定された見方にすぎず、それを読んだ人は要するに他人の目でみている場合が極めて多いのである。


/ 2012年 1月16日 /  ページ の トップ /


 ●  シラー (詩人) のことば

  偶然的なものを除去すること、そして必然的なものを純粋に表現すること、そこに偉大な様式がある。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  (略) 真理だけでなく、美の場合にも、究極においてそれは 「語り難いもの」 を裡にひそめている。したがってそれを求め、それにふれるということは 「沈黙」 を迫られるということでもある。すべて感動とよばれるものは、この種の沈黙を裡にひそめている。それについて語り出すや否や忽ち虚偽におちいると思うような場合を、人々は経験している筈だ。「無心」 と 「沈黙」 と、真理はこのうちにしのびよると言ってもよい。人間の言説のはかなさを知った上で、真理と美を語るべきである。


/ 2012年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ラ・ブリュイエール (批評家) のことば

  批評することに楽しみを覚えると、本当に立派な作品に深く感動する喜びが奪われる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  宗教問題の中でも最もむずかしいのは罪の問題である。(略) 罪が醜いものであることは言うまでもないが、その自覚そのものに、深い陥穽 (かんせい) がある。どういう陥穽か。罪についての自己計画から発する虚栄と打算である。宗教の最大の危険もここにある。人は罪の意識をもつことによって巧妙に自己を飾ることが出来るということだ。あるいは罪の意識を抱くことで安心するものだ。そして、これが直ちに救済観念に結びつくとき、どれほどの悪臭を放つか、想像されるであろう。同時に文学にとっては、罪の描写ほど誘惑的なものはない。


/ 2012年 2月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ハイネ (詩人) のことば

  精神の作品は永遠に不動であるが、批評には変わりやすいところがある。批評はその時代の意向から生じてくるからだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  したがって、信仰を得るということは安心をもたらすことでなく、逆に今まで見えなかった人間の実態が見えてくることを意味する。だから救いという観念とは逆に、人間としての救いの無さという自覚の方が深まる筈である。


/ 2012年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  リルケ (詩人) のことば

  批評的な言葉によって近づくほど芸術作品にふれることのできないものはありません。すべては、とかく人が私たちに思いこませたがるほど理解しやすいものでもなく、言葉で語りやすいものでもありません。とくに、芸術作品はもっとも口で言いあらわしがたいものです。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  罪悪感を抱くことによって一層巧妙な誘惑者になることもありうる。それはこういうことだ。最も巧妙な誘惑者とは、誘惑の罪を知り、その点で自己を責めながら、自己を責めることに酔いながら女を誘惑するもののことである。そういう一種の知的要素が作家の中に存在する。(略) 神の名はこのとき、情欲をそそる薬味 (やくみ) のような作用をするだろう。


/ 2012年 3月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ルメートル (批評家) のことば

  批評とは書物を愛読し、それによってじぶんの感覚を豊かにし洗練させる術である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  平生健康なときは、我々は自分の生命力については無関心である。ところが一旦病気になると忽ち自分の生命に不安を抱く。全力を挙げて生きたいと願うし、同時に生命のもろさを実感する。あるいは死の恐怖を味わう。それまで抱いてきた自分の希望や信念を改めて思い出し、中途で倒れてはたまらないという深い焦燥感や憂いに陥るであろう。つまりこうした不幸が動機となっていままで自覚しなかった生命力がはっきり自覚されてくる。


/ 2012年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  A. フランス (小説家) のことば

  よき批評家とは、傑作の間を歩む自己の魂の冒険を語る人間である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  肉体上の病気にもまして危険なのは、今日の我々の精神状態そのものが、様々の意味で病的になっていることである。文明が進歩すると、新しいすぐれた薬が発見されると同じ程度に、また毒薬の方も発達するものである。(略) 自分の内面に即して、いかなる意味で自分が病的であるかという、そういう自覚をもつことは極めて大切ではなかろうか。自分は健康であると思いこんでいる方が却って危険だ。


/ 2012年 4月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ルナール (小説家) のことば

  批評家は寛大にしてもらう権利がある。いつも人のことばかり言っていて、じぶんのことはけっして言ってもらえないのだから。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  自我の確立はたしかに近代精神の一つの特徴であるが、同時に我々が一番忘れていることは、その自我を放棄する場ではなかろうか。


/ 2012年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ヴァレリー (詩人) のことば

  批評家。きわめて薄汚い子犬でも、致命傷を与え得る。つまり狂犬でありさえすればよい。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  自己形成のために社会的条件が必要であることは言うまでもないが、その社会という言葉をよく吟味して行くと一つの抽象的性質にぶつかる。なぜ抽象的かというと、社会という概念だけはもっているが、さて実質的に自分の目で見、自分の手で直接触れる範囲を考えると、それは実に狭い。自分の家族とか職場とか団体とか、そういう限られた範囲内で我々は活動している。そして、一般にひろく社会という場合には、その大部分は様々の報道機関とか書物とか映画を通して 「考えられた社会」 むしろ 「軽信された社会」 であって、その意味で私は抽象的なものとよびたいのだ。たとえば ジャーナリズム が示す社会は果して社会であるか。社会学が教える社会は果して社会であるか。そういう疑問をもてということだ。私の恐れるのは社会的観念だけで物事を見て判断して、その実質にふれることの極めて少ないことである。社会的関心は無用だと言うのではない。むしろ逆に我々が社会的関心と呼んでいるものが、果して正当に社会的関心かと自己に問うてみよと言いたいのだ。


/ 2012年 5月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ヴァレリー (詩人) のことば

  真の批評家の目的は、作者がじぶんに向っていかなる問題を提出しているかを見きわめ、且つ作者がその問題を解決しているか否かを探求することであるべきだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間が一個の人間として形成されるのは、ただ自分自身の力だけに基くのではない。必ず自己を形成させてくれるところの外部の原因というものがある。その原因の中で最も直接性を帯びるのは、自分の先生とか、先輩とか、友人とか、仲間とかいった具体的で身近な人間関係であり、そこに成立する邂逅である。多くの人は、思い出の中に必ずこうした意味での邂逅の思い出をもっているにちがいない。思い出とは元来そういうもので、それがその人の生涯に深い痕跡を残すのである。しかし生涯のいかなる時期に誰と出会うかということは偶然である。こういう人間に出会いたいと思っても出会うことが出来ない。またふとしたはずみに、自分の生涯の師とも仰ぐほどの人物に出会うこともある。友人の場合も同様だ。だから心と心との結びつきを促すような人間関係の成立というものは、強烈な印象を与えるものである。即ち思い出となる。


/ 2012年 6月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  シャトーブリアン (小説家、政治家) のことば

  独創的な作家とは、たれをも模倣しない人のことではない。だれもが模倣できない人のことである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  だから人生を人生たらしめる基本として、私はいつも邂逅と謝念について語ってきた。社会という言葉を使うなら、少なくともこうした結合の成立の場として考えたい。


/ 2012年 6月16日 /  ページ の トップ /


 ●  エマーソン (評論家、詩人) のことば

  シェークスピア のような人物はけっして シェークスピア の研究から生れないだろう。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  邂逅と謝念と、更にそこに生ずるのは信従ということである。(略) そしてここで開眼ということが起る。それまで見えなかったものが明らかに見えてくるということだ。同時に、ここに人間の転身ということが起る。(略) そしていままで見えなかったものが明確に見えてくるということは、言葉を換えて言えば、人間としての苦悩が更に深まるということだ。(略) だから邂逅と謝念と信従と転身は、そのまま必ずしも人間の心の安らかさを意味するものではない。むしろ逆に一層多くの不安を我々にもたらすかもしれない。しかし、幸福とはそういう不安に耐えぬく勇気だ。


/ 2012年 7月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ピカソ (画家) のことば

  個性は、個性的になろうとする意志から生まれるものではない。独創的になろうと熱中しているひとは、時間を浪費しているし間違っている。そのひとに何かがやれたとしても、じぶんの好きなものを模倣したにとどまる。やればやるほど、じぶん自身とは似ても似つかぬものを生むに終るのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  抽象的な道徳がいかに危険であるかということである。(略) 即ち言葉自身としてみればすべて正しいのである。絶対にまちがいのないことばかりなのだが、絶対にまちがいのないことばかり並べられると、人間性は忽ちそれに反抗するものである。ましてそれが権力による強制を帯びる時、「正しさ」 は逆に 「不正」 となる。「善」 は 「悪」 に転化する。何故なら、人間はその正しさのために傷つくか、あるいはその 「正しさ」 を装おうとするために偽善者になるからである。


/ 2012年 7月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ツルゲーネフ (小説家) のことば

  どんなにその頭脳が偉大で抱擁力に富み、あらゆることを理解し、多くのことを知り、時代におくれぬ力があったにしても、じぶん自身のもの、独自のもの、固有なものが一つもなかったら、いったいそれがなんの役に立つのだ? がらくたを詰めこんだ倉がこの世に一つ増えただけのことではないか。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  すべての人間の心に訴えるものは、正しさではなく、むしろ正しくあろうとしてまちがったとき、そのまちがいから発せられた正しさへの欲求であり、祈りである。


/ 2012年 8月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ゲーテ (詩人) のことば

  インスピレーション とは、二、三年漬けておけばできる鰊の塩漬のようなものではない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  善行とは恥しい行為ではあるまいか。少なくとも自ら 「善行」 したと思いこむことは。


/ 2012年 8月16日 /  ページ の トップ /


 ●  デカルト (哲学者) のことば

  学問はすべて相互に結合しているゆえ、一つを他から分離するよりも、すべてを一度に学ぶ方が、はるかに容易であることを、人はよく心得ねばならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  死に方、負け方について、古来日本には二つの態度がある。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」 といった禅的気魄と、「ただ嘆きのままにうちまかせる」 という親鸞の凡夫道と。しかしいずれにしても、それが人に見られることを予想した 「態度」 となってはよくない。我々は戦時中を通して 「火もまた涼し」 の方に、少なくとも表面は慣らされてきた。度胸があって、毅然として、びくともせぬ態度が、いつの場合でも立派とされてきた。立派にはちがいないが、立派すぎて困ることがあるのだ。つまり柄にもない役者を多く生むのである。


/ 2012年 9月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  リヒテンベルク (小説家、自然科学者) のことば

  凡庸な学者たちのうちの多くの者は、偉大な人間になることもできたであろう、もしもあんなに多くの書物を読まなかったならば。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  直接自分に関係がないかぎりは、いかなる悲惨な事件をもこれをのぞきこみ傍観する。そういう意味での好奇心が今日ほど激しくなったことはない。私はこれを好奇心の廃退現象と呼びたい。つまり極く普通の意味での思いやりという感情が失われてきたのだ。極端な見物人根性、傍観者意識が発達してきたのである。


/ 2012年10月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ショーペンハウアー (哲学者) のことば

  学者とは、たくさん書物を読んだ者のことだ。思想家、天才、世界に光明をもたらす者、人類の啓発者は、しかし、世界という書物をじかに読んだ者である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  信仰の場合はとくにそうだが、それはまず隠れてなされるべき行為である。人に見せるためのものでなく、宣伝すべき性質のものでもない。自分の心に秘めて、ないしわずかな人々の間でだけ、ひそかに営まるべき行為であって、それが大衆化されるにつれて、極めて多くの危険を伴うものである。


/ 2012年10月16日 /  ページ の トップ /


 ●  ヴォルテール (詩人) のことば

  真理が明瞭な時は、党派や徒党の生ずることはまずない。
  真昼間に ひとはけっして夜が明けたかどうか論争しなかった。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「宣伝」 は現代の特徴だが、そこには必ずある効果を露骨に追求する精神がみられる。同時にそのくりかえしは、必ず誇張を伴う。本当に人の心を打つのは事実の正確な伝達であって、それは宣伝しようという下心を放棄したときはじめて可能となる。人に伝え難いものを敢えて伝えようとする時の、複雑な気持ちを伴うからだ。


/ 2012年12月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  レッシング (劇作家) のことば

  真理が共通のものだと信ずることは、私には不可能だ。
  世界中がいちどきに夜が明けると信ずることも、同様に不可能だ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  明確に、端的に行動する場合には、いかに多くのものを切り捨てなければならないか。つまり行動というものは、ある種の無知を必然に伴うものではなかろうか。スローガン の影響力が大きければ大きいほど行動は単純化されるが、同時にそこで抹殺されるものも多くなるのである。(略) スローガン は、人間の思考力を極端に省略するということだ。これは政治的 スローガン だけの問題ではない。現代ではあらゆる部門において、知識の吸収の仕方が便宜的になり、簡単な要約、あるいは分類限定などによって、すべてのものが省略のかたちであらわされている。我々が知識と思いこんでいるものも、スローガン 的な性格を帯びているかもしれない。


/ 2012年12月16日 /  ページ の トップ /

[ END ]


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